故鄉

Sunday, June 01, 2008

小市民聊天

小市民1:「聴説苗栗縣要建設一個『馬奮館』。」

小市民2:「什麼『馬奮館』?是苗栗縣養了太多馬、没有地方放置馬糞是麼?」

小市民3:「那裏面一定很臭。誰要進去」

小市民2:「需要的人士就去看阿。你們没聴説過、『脚踏馬糞分官気』麼。拍馬屁的人也必需看。」

小市民1:「裡面還会陳列一些馬総統従小到大的人生歴程、穿過的衣物、書籍等等阿」

小市民2:「我知道了。那是和蒋総統一様、要排放遺品、譲大家瞻仰的」

小市民3:「可是他、人還在阿」

小市民1:「你們不知道 現在是什麼時代、万事要快。現在不準備好、到時候不能、『馬上瓣阿』」

Tuesday, April 15, 2008

白色テロ

「白色テロ」と台湾で言われている、蒋介石の軍隊による台湾人大量虐殺事件は、近年になつてやっと一部の人々の口に上るようになりましたが、終戦後半世紀余まで、台湾では、誰一人それを言う勇気は有りませんでした。

終戦の、1945年8月、連合国による委託管理として台湾駐留を任された蒋介石の軍隊を、台湾人は、「日本が戦敗して、祖国の軍隊が戻って来た。これからは自分達も、もう植民地の人間ではなくて、一国の国民になるのだ」、と喜び、心からの誠意を持って歓迎しました。所が、上陸した軍隊に最敬礼をして頭を上げた目の前にあったのは、ずれそうに巻いたゲートル、太腿の上までの、よれよれの短いズボン、銃を肩に担いでいるのや、天秤棒で鍋釜、野菜などを担いで歩いているのやら。今まで見てきていた日本の軍隊とは、天地の差の隊伍でした。蒋介石の軍隊は、疲弊し切っていた上に、員数を合わせるために臨時に集めたのや、道端で歩いていたのを拉致してきた者もはいっていたのでした。

駐屯した彼等の噂がすぐに全島に広まりました。夜になって電燈が着くのが珍しく、自分等も電球を買って来て、天井からぶら下げたが、夜になっても点かない。水道の蛇口を買って来て、自分等も柱にくくりつけたが、水が出てこない。此れは一体如何したことかと怒り、威張る彼等は、電気も水道も見た事が無かった連中だったのです。そればかりでなく、餓鬼のようになっている彼等の、それが当たり前のように、至る所での略奪、婦女暴行等の、目に余る暴行事件が次々に起こり、驚いた台湾人民が、それに反感をもつのに時間はかかりませんでした。

中国の歴史を見ると、占領した都市を先ず兵士に略奪させて功をねぎらった。と言うような事が良く出ていますから、蒋介石もそれに習ったのでしょうか。それとも、中国内部で日本軍と戦い破れ、共産党にも戦敗した憂さ晴らしに、当時すっかり日本的になっており、言葉も日本語が常用されていた台湾人を、日本人と同類と見なしての暴行だったのでしょうか。

大きな失望に陥った台湾人と、中国軍との確執が遂に、爆発したのが、1947年2月28日に発生した、有名な2、28事件だったのです。

中国兵の、あまりにも理不尽な行為に怒った台湾人の反発は、瞬く間に全島に広がり、始めは台湾人側が優勢かと見えましたが、蒋介石側から直ちに送り込まれてきた、敗残軍隊ながらも武器を持っていた援軍と、身に寸鉄も持たず、戦闘経験の無い民衆との戦いは、日を経ずして台湾人の惨敗。それからは前にも増しての蒋介石軍による虐奪、無差別殺戮。平和的な交渉をと、出て行った医師や芸術家の民間代表まで、民衆への見せしめの為に、街の広場に引き出して蹂躙の上、残虐極まりない手口で殺す。など彼等は筆舌に尽くせない非人道的な鎮圧をしたのです。

殺されるものは殺され、逃げるものも逃げて、2.28事件は何万人もの犠牲者を出して間もなく静まりました。

しかし、事はそれでは済まず、蒋介石が次に取ったのは、台湾のリーダー級の人物を抹殺する事だったのです。それは、「台湾に潜入している共産党員を撲滅する」と言う名目で行われましたが、その大規模、且つ無差別な拉致、監禁、拷問、銃殺等の範囲の大きさは、2.28事件を優に越え、前述したように、あの頃の台湾で、自身で経験しなくとも、親戚、友人など、身近に犠牲者が無かった人は居なかったでしょう。と言うのも、共産党員を撲滅すると言う名の下に、中国大陸から蒋介石に付いてきた者達は、一寸でも己の気に触る人間には、すべて共産党と言う言いがかりをつけては密告して居たので、どれ程無辜の人が犠牲になったのか、計り知れません。

戦前の、日本統治下の台湾では、制度上でか、台湾人が官吏になって昇進することは極端に難しかったので、政治の勉強をしている人は殆どなく、ましてや一般民衆に共産主義とは何かなど、知る由も有りませんでした。それに、長い戦争の後で、知識欲に燃えていた、其の頃の台湾青年は、共産党の宣伝もはいっているとは知らずに、彼等の誘う「読書会」に参加したのです。この「読書会」に一寸でも顔を出したとか、其の中に友人が居たと言うものは、かならず標的にされ、捕らわれていました。叉、鉄道関係の人達も多かったようです。今思うのに、あの頃の中国では鉄道が唯一の文明交通機関であったので、彼等は鉄道を守るのに神経を使っていたのかもしれません。捕えられた人達、「政治犯」は、思想犯といわれ、思想犯として捕えられたものが帰ってくる事は皆無に近く、日毎に多くなる見せしめの公開銃殺、公開虐殺。(ちなみに、ずっと時代が下がった後、ある外国記者に対して蒋は、台湾には政治犯は居ない。と平気で嘘をついたそうです)

一般民衆をも巻添えにした、この恐怖政治「白色テロ」。是は確かに効果覿面で、それ以来、台湾全島の民衆は恐れのあまり、2.2.8事件も、白色テロの事も口を閉じて誰も、何も話さなくなりました。中には自己防衛の手段としてか、すぐさま国民党の勧誘に応じて党員になり、彼等の言いなりに、同胞を摘発するスパイ活動に従事する者もあり、ずっと時間が立って、1990年代になつても、心ある者がこっそりと犠牲者の家族に当時の事実を聞きに行くと、「やっと、あの事を忘れて、平和に暮らしているのだから、再び邪魔をしないでくれ」と、インタビューを断る人もありました。人間とは弱いものなのです。

私の父も、その台湾のリーダー級の人物を抹殺する白色テロの大きな犠牲者の中の一人でした。当時の父は、炭鉱と金鉱を経営し、紡績などにも手を広げていて、成功している事業家でありました。社会事業にも熱心で、殊に、当時台湾には唯一つの大学しかなかった事を思い、終戦当時日本から、国の為にとすべてを捨てて帰国したのに、職場を得ることの無かった優秀な人材を教師とした延平大学を、独自の資本で設立、又、芸術家を励まして援助もしていたので、社会的に尊敬されていました。それが彼等中国人の目に触ったのでしょう。

父が捕えられた為に、父本人ばかりではなく、家族もどんなに辛い目にあって来たことか。でも、私も、口を閉ざして、この真実を自分の子女には話しませんでした。私は自分の子供等が、人として持つべき正義感を持っている事を知っていましたから、万一子供等が台湾人の受けた陵辱、祖父の受けた残酷な仕打ちを知って、憤慨のあまり何かを仕出かしたら、と言うことを極端に恐れていたのでした。蒋政府のスパイのうようよしている台湾内では、唯でさえ、何もしなくても、私達、所謂「思想犯」の家族は厳重な監視の下に置かれていたのでした。一寸でも、中国からの難民である あの輩の気に触るような言動があったら、その日から、その人は姿を消されてしまいます。息子達をアメリカ留学の名目で出国させ、生活が安定したとき、私は始めてアメリカに行って、台湾に起こった政治的な事実を話しました。案の定、息子は「どうして自分が国内に居た時に話してくれなかった。もう今では手が届かない」と悔しがりましたが、始めから言って居たら、留学どころか命まで無くなっていた事でしよう。

父は、家族の懸命な奔走で辛うじて命だけは助かり、強いられての判決は、十年の実刑、市民権剥奪15年、全財産没収でした。彼等の目的は、指導者的存在だった父を抹殺する事と、父の財産だったのです。

あの頃、有る有名な新聞記者が、事実をローター通信社?かに発信したのですが、たちまち見破られて、記事を抹殺させられたばかりではなく、酷い目にあわせられたと聞いております。

蒋介石軍は、台湾に上陸した、1947年からの暴挙を其の儘続け、1949年7月15日には正式に全島に「戒厳令」を布告しました。それによって、台湾の民衆が政府の許可なしに海外に出ることも厳禁され、新聞雑誌はおろか、通信も監視されていました。ある日本の方が、「旧友達が何かを隠している感じだった」と言っていたそうですが、あの頃の、私達台湾人は、訴えるにも道が無く、じっと耐え忍ぶより他に無かったのでした。其の方のお友達も、きっと、言いたくてもいえない苦しみに耐えていらっしゃったのでしょう。

「誠実」「公益を重んずる」等の、現代社会のルールを身につけて居り、しかも武器を持たなかった当時の台湾人を、武器を持っている彼等が、脅し、騙すのは、赤子の手をねじるようなものだったのです。

こうして、白色テロは、政府によって事実を強制的に隠蔽され、誰も口にする勇気の無いままに、世界の人達ばかりか、現在台湾に住んでいる若い世代の人達にも半世紀近くも知らされる事がありませんでした。

蒋介石による戒厳令は、1987年7月15日に、その息子蒋経国によって、解除されましたが、それは多くの恐れを知らぬ人達の努力と、多くの犠牲者のおかげであり、又、世界的な趨勢が彼をして解除に持って行かせたのでしょう。しかし、狡猾な蒋の党羽、国民党は、解除と同日にそれと同意義異名の条例を発布するなど、直ぐには台湾人民を放さず、古い、人聞きの悪い条例を廃止するといっては、次々と新しい名称の法律を作って、世間を騙し続け、それは近年にまで続きました。

それでも、勇敢な台湾人によって、白色テロは徐々に明るみに出されて、台湾人による台湾の自由民主は、今では大きな進歩をとげています。それにもかかわらず、その時代を経験した私達の心の奥深くに、当時の恐怖は今でも残っており、まだすっきりと消え去ってはいません。

白色テロは、それほどまでに、深い傷を台湾人に負わせているのです。

心心 2007年7月3日

看守所 監獄

何万とも知れない無辜の人達を、己の暴政の犠牲にした、蒋介石率いる秘密結社の暴挙、白色テロ。その犠牲者達が、最初に引き捕えられて行った先は、台北市内の各所に設けられた、秘密の尋問所でした。其の名は看守所と言われて、まるで、一般のコソ泥やチンピラが一時留置されている所のような軽い名称でしたが、この看守所という名は、あの頃では、泣く子も黙る、怖ろしい名前でした。一旦看守所に入れられたら、先ず、大部分の人達が、生きて出られると言う望みを諦めねばならなかったし、命からがら出てきたとしても、無傷。と言うのは絶無だったでしょう。

父も其の中の一人で、十年の実刑を終えて、ようやく自宅に戻れましたが、獄中の事は思い出すのが辛いのか、話したがりませんでした。しかし父は、92歳で亡くなるまで、毎夜のようにうなされて、苦しそうな悲鳴を上げていたのです。

白色テロの生き残りの方々の証言などによれば、蒋介石の手下の獄吏達は、(調査員と言っていました)捕まえた犠牲者(あの時代には思想犯とされていました。)の罪が重ければ重いほど、もらえる賞金が多くなる制度で、為に、拷問で無実の罪をどんどん積み重ねてその犠牲者の罪状を増やし、最終的には死刑に持っていくのが、彼等の目的だったのです。それに、彼等の逮捕機関は、一つだけではなく、二つか三つの秘密機関が同時に動いていましたから、極短時間に、あんなに多くの犠牲者を作り出していたのでした。

捕えられた人達の中には、彼等の目的の、潜伏共産党員も若干居ましたが、無実の人達が多く、彼等は其の人達にも罪を認めさせるために、あらゆる手立てを使いました。身に覚えの無い事をでっち上げて承認させようと言うのですから、誰でも始めは否定します。それを酷い拷問で承認させるのです。ある生き残りの方の書いたのに、「手足の親指の爪を剥がれるのは拷問の初手で、それはとっくにされていた」とありますが、爪と肉の間に針を差し入れる。爪を剥ぐ。と言う事は、拷問の中の初期の仕打ちだったとのことです。阿鼻叫喚の生き地獄とは、こう言う事を言うのでしょう。其の方(郭振純さん)の経験談では、「手足を縛られて袋に入れられ、水辺に連れて行かれた。彼の前に、苦し紛れに彼の名を言ってしまった友人が、矢張り袋詰めにされて居り、その人が先に水に落とされる音がした。そこでも、もう一度尋問を受けたが、郭さんは頑として応じなかったので、彼も水中に投げられ、深く沈められた。が、袋の口が引っ張られている感じがしたので、きっと引き上げられると信じて、じっと息を止めて最後まで我慢した」とあります。それでも言われた事を承認しなかったので、次には「全身を真っ裸にされた上、手足をがんじがらめに縛られて、叢の中に放り投げられ、砂糖水を上から全身に掛けられたので、直ぐにやって来た無数の蟻が体中を這い回って噛み、痒さと蟻酸で痙攣を起こして、気絶寸前だった。」と有ります。でも彼は、「学校で日本人の教師から、男子はどんなに苦しくても悲鳴を上げるものではない」と教えられていたので、歯を食いしばって、最後まで一声も出さなかった。と言っています。その惨状にさすがの調査員も見かね、自分の口に指を差し入れて誰の声かはっきりしないようにして、彼の代わりに偽りの悲鳴を上げたので、付近から人が出てきてすぐ塩水をかけて蟻を退け、彼は其の時に始めて気が遠くなったそうです。こんな酷い拷問を、調査員の主任は、その拷問を題して「蟻儀上樹(春雨とそぼろ肉をいため合わせた四川料理の名)」と言い、始める前に「お前、蟻儀上樹と言う料理を知っているか、それをご馳走してやろう」と言ったとのこと。彼の罪はといえば、国民党が、倒したがっている人物の、でっち上げの罪状をこしらえ、其の要人の近くにいた郭さんに証人のハンコを押させようとしたのに、彼が頑として承認しなかった。と言う事。それで彼は命こそ助かったが、代わりに、22年2ヶ月と言う、長い監獄生活を強いられました。

より多くの思想犯を捕らえる為には、捕えられてきた人から、その人の友人の名前を聞きだすのが一番手っ取り早い方法でしたから、彼等はそれを拷問で聞き出していました。日本政府の残した綿密、且つ正確な戸籍簿で、彼等は名前さえわかれば直ぐにでもその者を捉えることが出来たのです。戸籍は、山奥や辺鄙な寒村にまで及んでいましたので、嫌疑を掛けられた者は逃げ場が無く、自宅の穴倉に何十年も隠れて遂に病死したと言う記録も有り、生後間もない赤ちゃんを道連れには出来ずに、人目に付く場所において逃げた若夫婦の話も聞いたことがあります。

この様に、彼等の拷問のすさまじさは、多くの生き残りの方々の著書などで、私が申すまでも有りませんが、父の場合は、袋に詰められて上からぶら下げ、外から滅多叩きに叩かれて、足は氷の上に何時間も立たせたそうです。それも毎日で、歩けなくなった父が、壁伝いに歩き難そうに行くのを、同じ嶽舎に居た運転手が垣間見ていました。運転手の獄房からは、父の獄房の前が少し見えたので、父の靴が未だ置いてあるか否かで、父の存命の有無を伺っていたそうです。有る時、父はあまりの拷問に気絶し、中々覚めなかったので死んだと思われ、庭の軒下に放り出されました。翌朝のごみ収集のトラックに捨てさせる積りだったようです。それが、夜露に当たった為か、翌早朝、前日の便桶を捨てに行く当番の人が(この人達も思想犯でした)見つけて、生きているらしいと、尿を傍に掛けてみたので息を吹き返し、獄舎に戻されたと言います。こんな目に会ったのも、父が最後まで一人も友達の名を承認しなかったからだと、私は、帰って来た犠牲者の方達から聞かされました。

尋問期間中の獄房もひどいもので、日本時代に留置所として使っていた二人分の部屋になんと四十人詰め込まれ、横になる場も有りませんでした。あまりの人数に留置所では足りなくなって、急遽拵えられた場所は、樹皮も削られていない、裸の丸太をそのまま並べた床で、横になると痛かったし、冬は丸太の下から吹き上げる冷たい空気が肌を痛いほどに刺すのです。勿論其処も超満員。夜は交代で横になり、用足しに起きた者が自分の場所に戻る時には、他人の体を踏んでしまいます。夏には汗、涙、血、にまみれた部屋に、虱、蚤が発生したのは当然の事。健康を害し、下痢するものが多かった獄室に置かれていた便桶は四個。大小便各二個で、その臭気の強さは言うまでも無いことでしょう。全員で交代に便桶の傍の位置に寝るのですが、若い人達に尊敬されていて其処には割り当てられなかった父は、しかし、絶対に皆と同じく、その一番辛い場所にも寝たといいます。臭い便器は、翌早朝、当番が担いで外に捨てに行くのですが、その役目を皆欲しがっていたと聞いて驚きました。実は、便桶を担いで外へ出ると新鮮な空気が吸えるし、タオルで体を拭く事が出来たからだとのこと。重大犯達は、一週間毎に部屋換えをさせられます。どの部屋にも偽の思想犯がスパイとして入り込んでいて、室内の話を密告し、看視していました。叉、ある人を尋問のように見せかけて、調査員の部屋に呼び、タバコをその場ですわせました。何事もなく帰って来て、しかも体中タバコの匂いをぷんぷんさせていたその人は、同室者の羨望と強い疑惑を招いたそうです。扇動して、仲間われをさせる、実に巧妙な手口だと、帰って来た父の運転手が言っていました。運転手は叉、父が連れ去られた時に同時に私達から略奪したあのフォード車が、其処で、拉致に出かける彼等の交通器具として使われていたのを、車のラッバの音で聞き分けていました。彼が毎日丁寧に拭い、整備をしていた車ですから、ラッパの音だけであの車だと解かるのでしよう。

拷問の次に来るのは判決。裁判などの無い、一方的な判決言い渡しです。ある政治犯帰りの方に、その方の収監期間を聞きましたら、自分は三年の懲役、「一番安いのだったよ。」と物価の事を言うような口ぶりでの、さらりとした返事が返ってきました。あの時の世情を反映し皮肉った、意味深長な答えです。其の方は、ただ、友達が本を預けて行った。というだけでの事でした。二十年、三十年の実刑と言うのはざらに有り、彼の、三年の実刑と言う判決は僥倖といえたのでした。四十年の刑を終えて出嶽した人の、四十年間をずっと待っていた婚約者との結婚に、父が招ばれたことがあります。二人とも還暦近くになっていたが、とても嬉しそうだった。と父が言っていました。新郎は、結婚直前に捉えられたのでした。こんなのは、幸運な方で、数十年の刑を終えて出てきた人が、我が家に飛び込んで真っ先に父母の名を呼んだが、待っていたのは物言わぬお位牌だったという例も少なくありません。親が、心配のあまりに早逝してしまったのを、獄中の人を悲しませぬようにと、周囲の人達が隠していたのでした。

法廷は 世論を騙す飾り物 生くるも 死ぬも好き勝手にて  江槐邨作
                              台湾歌壇第五集より

四十年でも、五十年でも、命さえあれば帰れます。しかし、あの頃、日常茶飯事のように耳にさせられていた「死刑」。銃殺されて永久に帰らぬ人の如何に多かったことか。最近発見された報告によると、重大事件と称される件は蒋介石が直々目を通したが、蒋は重刑に満足せずに、多くの判決文を「死刑」と書き直させて居たと言う事です。しかも、死刑判決された人は、銃殺直前と直後の写真を必ず蒋に見せるように命ぜられていました。勿論その多くの写真の中には女性も居て、最近行われた白色テロ展覧会の中の、ある女性犠牲者(丁窕窕さん)の写真は、出産後一ヶ月足らずで捕らえられた為、その赤ん坊も一緒に監獄内に長い事居たのが、突然引き出されて銃殺されたので、最後に一目、幼な子とも別れをする事もならずに引き離されて刑場に引き立てられた、やつれ果てた銃殺前後の写真でした。それは、見るも辛く、胸のうずく思いのものでした。捉えられる前の彼女は、ぽっちゃりとした可愛いお嬢さんだったそうで、恋人もあり、勿論、共産党員でも無かったのでした。その恋人も同じ監獄に入れられていたので、ふとした事からそれを知った彼女は、監視の目を盗んで、自分の爪と毛髪を秘密の場所に隠し、自分の亡き後は故郷の木の根元に埋めるようにとの添え書きをしておりました。彼女の其の望みは、恋人が長い獄中生活を終えた後、やっと叶えられたとのことです。

君散りて 半世紀経ぬ 誓い言 未だ成らずに 詫びし老いぼれ 郭振純作
短歌勉強会2005年作品集「龍」より

「生きたい」と 一人呟く二条一項の 獄友(とも)に慰めの 言葉浮かばず 江槐邨作
台湾歌壇第5集より

二条一項とは「死刑」の判決条例です。絶対に助からない銃殺の日を待つ同室の難友に、懲役三年の判決を持つ彼は、生きたいと呟く友に言うべき言葉を捜しえませんでした。

父は私達家族には話しませんでしたが、父の獄室にもこういった難友が居て、父は銃殺と決まったその方々に「台湾青年の血は、汚れた服の上に流してはならない。いよいよという時には、これを着ていくように」と自分の新しい白シャツを渡していた。と後日、其の方の奥様が皆さんに話されていました。台湾の若者を愛し、いつくしんでいた父が、自身の明日の命をも知れない監獄内で、死に行く青年にそれを渡す時。其の言葉には、どんな思いがこめられていたのでしょうか。父はよく「入る前は鉄だが、出る時は剛(ハガネ)になって出る」と私達に言っていました。

2007年8月9日  心心

Saturday, January 21, 2006

故郷  (日訳)

半世紀以前のある日
学校の先生が生徒に言いました
「今日からお前たちは皆日本人だ。
北の方、 東海の向こう 
天皇陛下のおわす『内地』が
お前たちの忠誠を尽くすべき国家」

四十年前のある日
学校の先生が学生に言いました
「今日からお前たちは皆中国人だ。
西の方、 台湾海峡の向こう 中国大陸が
お前たちの愛する祖国」

二十年前の学生たちは、友達に言いました
「東の方、太平洋の向こうに広大な土地がある
皆一緒に移住しよう。皆でアメリカ人になるんだ
我々のドリームはアメリカにある

今の大人たちは 自分のアメリカの子供達に言いました。
「太平洋の向こうの 小さな小さな海島
緑濃き山々 清らかな流れ 淳朴な人々
あそこがお前たちの故郷 
我々の真の国土なのだ
暖かい母親のふところよ
赤子のゆりかごよ

ふところは何処に?
ゆりかごは?

寂しい台湾人よ、 流浪の台湾人よ!
どうしてお前の故郷は 
何時も海の向こうでなければならないのだろう!・

故郷

半世紀以前的有一天
学校的老師対学生説
「従今天起 你們都是日本人
在北方 東海的那一辺 
天皇所住的内地是你們要效忠的国家」

四十年前的有一天
学校的老師対学生説
「従現在起 你們都是中国人
在西方 台湾海峡的那一辺 
中国大陸是你們敬愛的祖国」

二十年前的学生們 対同学説
「在東方 太平洋的那一辺 
有個厖大的陸地 我們一同移住吧   
大家来做美国人 我們的美夢在美国」

現在的大人們 対自己的美国孩子們説
「在太平洋的那一辺 有個小小的海島
山緑水清 人敦厚
那裏才是你們的故郷 
是我們真正的国土
母親的懐抱 嬰児的揺籃


懐抱在那裏?揺籃在那裏?
寂寞的台湾人 流浪的台湾人
難道你的故郷 永遠是在海的那一辺麼?

三年続く傘壽

       


          一 ややこしい八十歳 

   二〇〇二年の十二月三十一日に私の家では主人の八十歳の誕生祝いをしました。

台湾では、台湾語の犬、「カゥ」と同音の「九」(狗)、を不吉な犬だと言って嫌い、九の付く歳を厄年として、この歳の年齢は歳を一つ足して言います。こう言うことは若い頃にはあまり気にされずに済まされますが、一般に四十九歳の犬が最もたちの悪い犬で、大厄の年と言われて、四十九歳の年には、絶対に、年が明ける早々から、「今年は五十歳」と自他共に言います。そして其の年の誕生日には四十九歳の厄年が既に過ぎたという意味で、五十歳の誕生日をします。(数えでの年齢です)ややこしいですね。

二〇〇二年に主人は数えで七十九歳になりましたから、慣例ではこの年の誕生日には厄払いとして八十歳の誕生祝いをするべきなのですが、彼の誕生日、十二月三十一日は大晦日で、九の字の付く年を年一杯に過しているから、これでも厄払いになるかな、と思ったのですが、やはり慣例にしたがって、十二月三十一日に八十歳の誕生日祝いをしました。

孔子の言葉に「三十而立 四十不惑 五十知天命 六十耳順 七十随心所欲」と言うのがあります。これによると、人の一生は三十歳で事業を安定させ、四十歳では生活の方向が確立して迷わなくなり、五十歳になるとそろそろあの世に旅立つ人が目立ってきて天命を知らねばならなく、干支を一巡りして六十歳まで生きられたら、もう随分年取ったのだから、おとなしいご隠居さまになって若い人の言うことに耳を傾けなさいというのらしいですね。七十歳は古稀で珍しいから我侭を言っても好いのでしよう。八十歳の教訓は有りませんから八十歳は殆ど考えられない長寿だったのでしよう。孔子自身七十二歳で亡くなっているのですから、八十歳の心境は、さすが賢明な「孔子様もご存知ではなかった」のかもしれません。

 孔子の説によると、昔の平均寿命は五十歳程なのでしようか、現在では六十、七十歳は珍しくもありませんが、あの頃の六十歳は長寿に入っていたのですね。それで台湾では、大抵六十歳の誕生日から十年毎に祝い、(日本で言う還暦、古稀、傘壽、卒壽、)祝宴の規模は歳を重ねる毎に大きくなります。
  
還暦も古稀も傘壽も、大切な誕生日ですので、それにちなんで、私の知っている台湾の誕生日の行事を書き記しておこうと思います。
先ず、一生の間で最も意義の有る一番始めの誕生日、正にその名の如くその人の産まれた当日の事です。
        
二 「出産」「月内」

誕生日は、母親が出産で苦しんだ日なので、こちらでは「母難日」とも言われています。
台湾の諺に「安産なら産室に胡麻油の香りが漂うが、悪くすると冷たい板の上の身」。(生得過麻油香 生没過睏杉板)(註①)と言うのが有るように、衛生環境の発達していなかった昔、女性にとってお産は命がけでしたので、台湾では昔から出産を大切にし、産婦は殊のほか大切にされていました。

有名なキリスト生誕の物語では、三人の賢人に迎えられて馬小屋で産まれ、生まれた瞬間から人々に敬われていたキリストですが、その母親のマリヤ様は馬小屋でどんな産褥の日々を送っていたのでしよう。又、世継ぎの世子の誕生を見届けるために大勢の貴族が産室に詰めていたと言う、西洋の王族の出産風景も感心できるものとは思えません。その点では台湾の産婦は幸せだと思います。
すべてを産院なり病院で済ませてしまう現在と違って、自宅出産が当たり前だった戦前は、お産が始まると産室には夫すらも入れませんでした。出産の苦しみにあえぐ女性の姿は女性にしか見せられないのです。産後も、お産で疲れている産婦を労って産室にはごく近親の女性しか入れず、夫も長居は無要。男児出産ならば一ヶ月、女児なら二十八日後の床上げの日まで産婦は産室から出なくてもいい、つまり家事からも一切免除。という事になっています。

一ヶ月間の休養期間は「月内」(グゥエライ、産後一ヶ月以内の意味)と言われ、産婦がたっぷり休養をとって健康を回復させる事が出来るように、貧富に関らず必ず中年の、世故に長けた女性がついて世話をしていました。(経済状態で雇えない場合は、お姑さん又は産婦の目上の女性がその任に当ります)。其の間、産婦は毎日上げ膳下げ膳の待遇。以前は使い捨てのオムツ等なく、必ず洗って何度も使っていましたし、粗末な生理用品で産婦の衣類なども汚れますが、嬰児の世話、汚れ物の洗濯、赤ちゃんのオムツ洗い、一切その女性がしてくれます。産婦が月内に水仕事をすると年取ってから関節が痛むと言う言い伝えです。長い豊かな黒髪を髷に結っていた昔、洗った髪はなかなか乾かず、風邪から、引いては肺炎、産褥熱の原因になったりしていたのか、洗髪もご法度。パーマの髪はすぐ乾くのに、かまわずに洗った私は南部の目上から、「年取ったら頭痛に悩まされる」と小言が届きました。産室は産婦が風邪引ひかないようにと、窓などなるべく閉めていましたので夏は大変!(扇風機も回せません)
産婦の食事は殊に大切で、特別の献立があります。

その献立の代表的なのが「胡麻油鶏酒」。鶏のぶつ切りを胡麻油で炒め、生姜をたっぷり入れて、水を使わず唯酒だけで煮こんだ鶏肉の汁料理です。(酒は高かったし、酒に弱い産婦などもいて、スープには水を足す事も出来ましたが、なるべくなら全部酒で似るのが好いとされていました)。この、「鶏酒」と呼ばれるお産の象徴ともされる料理は、毎食必ずつきます。農村では、嫁が妊娠したと知ると、この時の為に早くから鶏の雛を育て始めていたものでした。この月内の時にしっかり栄養補給をしないと後々体が弱るとの言い伝えがあり、嫁にしっかり食べさせなかった姑は悪く言われるので、普段けちなお姑さんもこの時ばかりは、歯を食いしばってでも毎食の「鶏酒」を欠かせませんでした。ちなみに、台湾の昔の結婚風俗に、結婚の翌日新婚夫婦が揃って里帰りする行事がありました。その里帰りの帰りに、新婦は里から縁起物として色々持ち帰るのですが、その荷の中に、必ず一対、又は偶数対の鶏の雛鶏が入れられていました。台湾語で「家」と同じ、ケェと発音される鶏は、家を興すと言う意味で縁起が好いのです。一説には、まだ声変わりしてなく、夜中に母鶏を慕って鳴く雛鶏の鳴き声は、生家を離れて一人で見知らぬ家庭に入り、人々の寝静まった夜に親を慕って泣く若い嫁の泣き声を隠してくれるから、とも言われていますが、しかし、この雛鶏がすぐに大きくなって数も増え、一年後のお嫁さんのお産に役立つからだと言うのが実質的なのでしよう
(昔はバスコントロールなどしていませんでしたから、一年後には必ずお産があるものとされていて、結婚の祝辞にも、来年の今頃又「鶏酒」をご馳走になりに来ますよ。と言う言葉があります)鶏肉が非常に高価な食品だった頃、鶏料理は特別な時にだけの料理でした。

「鶏酒」はとても香ばしく、煮ているとその好い匂いは、所謂「麻油芳」(胡麻油のいい香り)となって家の外にも漂い出、近くを通る人々は、この家に赤ちゃんが生まれた事を知って頬を緩ませるのです。産婦にだけの特別食でしたが、勿論家族もあやかって毎日食べられ、鶏酒スープの強い酒で昼間から顔を赤くしている夫が、「妻が月内で、夫は月外だ」と冷やかされたりするのもほほえましい風景でした。

次は油飯。(ユープンと言って胡麻油で蒸したもち米ご飯。端午の節句の粽のご飯と似て、豚肉、椎茸、干し蝦など具沢山)。産婦の栄養食ばかりでなく、いわば日本のお赤飯の様な用途としても使われます。出産が無事に済むと、その家では、まずご先祖様に出生の報告と御加護を祈りますが、お供えものは、産婦の食事の鶏酒と油飯です。油飯は、大抵出産の翌日辺りから、産婦のご飯として出されます。その他に、お八つとして、柑橘類の砂糖漬けを胡麻油で揚げたもの。飲み物は漢方薬を煎じたのや、黒豆を煎って湯で沸かした黒豆茶が勧められ、お乳の出が悪い産婦には、乳の出を促進させる為に、豚の足のぶつ切りをピーナッツと一緒に煮たスープ。下り物を早く終わらせるための漢方薬の薬湯(墨汁の様に真っ黒で気味が悪いのですが、幸いなことに私には強制されませんでした)。腎を強くするように豚まめの胡麻油スープ。等などです。このような栄養たっぷりの豪華食が重要視される反面、制限も沢山ありました。野菜類、魚介類は漢方医学的には体を冷やす食べ物、肉類は体を温めて栄養がつくとされていた当時、経済の許す限り、三食とも肉食。野菜はほうれん草など二三種、魚も鯛などの高級な魚以外は一切食べさせません。昔の台湾人は、宗教的な観念から牛肉を食べませんでしたから、勿論ビーフなるものは食卓には出ません。

食事制限は旧家になるほど厳しく、野菜、魚介類が駄目な上に、お冷やも勿論駄目、果物、ことに西瓜、蜜柑などもご法度でした。蕎麦もその長い形から汚れが長引くと、禁じられています(そうめんは別)。夏の出産で、扇風機をどんどん廻し、うどんを食べ、食後に西瓜もアイスクリームも食べた私に、「なんて野蛮な」とこの時も里の伯母からのお小言が届きました。 

この豪華版食。この制限。産婦の為を思った食事でしようが、現代の食生活になれた私達の世代には余りありがたくなく、始めの頃はこのご馳走を喜び、この時とばかりに頬ばったものでしたが、あまりにも毎食だし、他の物は食べさせてもらえないし、其の内に厭いて、「月内」の終わる頃には「鶏酒」を見ただけで泣きたくなったと、旧家に嫁いだ従姉が、産褥中、誰にも干渉されずに、食卓で家族と自由に何でも食べていた私を羨んでいたそうです。実際、材料からして大変カロリーの高い食品の上に何もしなくて唯授乳して、寝て居ればいいので、毎食の麻油鶏酒、砂糖漬けの胡麻油揚げ、黒豆茶、と一ヶ月続いた後の、産婦の体重、体格には目を見張るものがあったものです。

          三 「報喜」「剃頭」

出産も無事に済み、赤ちゃんも順調に育つと、婚家では赤ちゃんの生後十二日目に嫁の里に「報喜」というのをします。読んで字の如く、嬰児出生の報告です。通信の発達した現在、赤ちゃんの生まれた事は電話一本ですぐ地球の反対側にまででも届きますから、これは必要と言うよりも嫁の里に対する礼儀なのです。「報喜」の行事では、出生の報告として、「鶏酒」を鍋ごと届けます。代表的な産婦の食事が、全部を物語っているのです。鶏酒鍋には、ぶつ切りにした鶏一羽分全部入っていますから、里では受取った後この中から鶏の頭、二つの手羽、鶏の足、を選り取り、赤い紙に包んで返します。これは鶏一羽を象徴し、この次のお産にもこのように食べられる様にと言う意味。それにそえてのお返しに、産婦の「鶏酒」用にと偶数羽(四を除いた)の鶏を持たせることもあります。

「報喜」がすむと次には嫁の里の母親が新しい孫へのプレゼントを用意するのですが、それは生後一ヶ月、赤ちゃんにとって人生第一回の誕生祝の日(満月と言います)のことで、その前にもう一つ、生後二十四日目に赤ちゃんの頭の産毛を剃る行事「剃頭」が有ります。剃るのは目上の、年配の女性、若い人では危なくて任せられません。産毛を一度剃ってしまうと将来、髪が多く綺麗になるといわれ、私の次女は当時髪が薄くて殆どつるつるでしたが、やはり形式的に剃ってもらいました。彼女が現在でも人一倍濃い髪を持っているのはそのお蔭かもしれません。

「剃頭」では、まず、ぬるま湯を張った小盥にゆで卵を二つ入れたのを用意します。その湯で赤ちゃんの髪を湿めらせ、縁起の言い言葉を赤ちゃんにつぶやきかけながら、丁寧に剃ります。生後たった二十四日間しか経っていない赤ちゃんの髪は、あまり伸びていない気がするのですが、産毛を剃った後の顔が急に新生児から脱皮して、成長を感じさせる顔に見えるから不思議です。お湯の中のゆで卵は、その形から「円満な生活を」と言う意味ではないかと思います。

          四 人生第一回目の誕生祝。「満月」

いよいよ満月の日、その人の人生第一回目の誕生祝の日は、又、出産の無事を祝い、新生児のお披露目をする日でもあり、油飯と鶏酒をご先祖様のお供えする他に、親類縁者を招待して祝宴を開きます。主賓は新しい孫へのプレゼントを携えた嫁の里のお祖母さん。(此方では外孫、内孫に対して、母方の祖母を外祖母と言い、父方の祖母は内祖母です)。勿論外祖父さんも重要な賓客ですが、この時のプレゼントは一般に「外祖母からのプレゼント」と言われます。外祖父さんは費用だけ払わされて名目なしとは損な役柄です。
「外祖母からのプレゼント」は各家庭の経済状況、習慣に拠りますが、台南の例では、赤ちゃんの衣類及び装飾品と、お祝いの饅頭です。饅頭は中国語での饅頭でなく、日本のまんじゆうと同じようなもので、中に甘い小豆餡が入っています。皮の材料の小麦粉が麺と同じで、楕円形の形が亀に似ている所から、台湾語で「麺亀ミークゥ」と言い、表面が食用紅で紅やピンクに染められているので「紅亀アンクゥ」とも言います。

-------------実は途中まで書いて麺亀の皮の材料の名称が解らなくなってしまいました。「以前はメリケン粉と言っていたけど」と従妹と相談。二人で頭を傾げた挙句、彼女が「メリケン粉が、今は小麦粉と呼ばれるようになっていた」と気付いて、「メリケン粉の改姓名ね」と二人で笑いました。註②    
    戦前の日本語しか知らない私達です-------
話が又それました。

台湾では祝い事に必ずと言っていい程この紅亀を使いますが、これも用途によって種類が違い、男性の方が作るのは赤色、女性の方が作るのはピンク色と決められています。満月祝いの紅亀は、両家共作りますが、赤ちゃんの生まれた家では赤色で、外祖母からのはピンクに染めます。この時の紅亀は、赤ちゃんのお祝いですから母親の乳房を模った、やや平たい円形の上に小さな丸いのを乗せた形で、大きさも10cm前後程です。数は慶事の場合は複数ですから、おおむね縁起の好い、六、又はその倍数です。

赤ちゃんの衣類及び装飾品もそれぞれですが、出来れば頭のてっぺんから足の先までの四季の衣服一揃え。先ず帽子、帽子の前方には、赤ちゃんの成長と将来の幸せを祈った縁起の良い字が刻まれている、金細工の平たく丸い飾りを幾つか縫いつけます。お守りの意味で小さな観音像を縫い付けたのも有りました。それから女児は金のネックレス。男児の場合は、それに金庫を守る錠前と言う意味で錠前の形をしたペンダントをつけ足します。それと可愛い小さな金の指輪、腕飾りの金のチェーン、この一対のチエーンにも魚や貨幣をかたどった小さな飾りを下げます。それに赤ちゃん用のケープ、おんぶ用の紐。この紐ではこう言うことがありました。主人の妹の長男の満月祝いの時のこと、主人の母が丹念に用意したお祝いの品々に、このおんぶ紐だけ欠けていたのです。台南の旧家に育ち、台北の三高女で日本式の教育を受けた姑は、台南の慣例には長けていましたが、台北の例ではおんぶ紐が大切と言うことは知りませんでした。しかも、これは十六尺と長さが決められていて、紐の端を折って小さなポケットを作り、中に何がしかの祝儀をいれなければならないのです。十六尺というのは、一斤は十六匁だから、その数にかけて沢山の子宝ができるように、と言う願い。大切な縁起物が欠けていたと言うので、姑は付足しを求められ、いやな思いをしました。後で私がその要求通りに木綿十六尺でおんぶ紐を作って持参しましたが、その甲斐あってか義妹はその後目出度く男子四人女児一人をもうけて面目回復。しかし、殆ど年子の四人の男の子を相手に、若かりし頃の彼女が、子育てで結構苦労していたのも否めない事実でした。

子供は産まないか産んでもせいぜい二人止り、子沢山なんて考えただけでも恐ろしいと言う現代の若い人達にとっては、馬鹿馬鹿しくて歯牙にも掛けられないような本当の話でした。

外祖母さんからのプレゼントの装飾品の金は勿論皆純金。金尽くめのキンキラベビーは、新しいベビー服を着せられ、(大抵の赤ちゃんはこれを嫌ってむずかるのですが)内祖母さんに抱かれて、一ヶ月の休養で元気回復、晴れ着に着飾ったお母さんと共に各卓の来賓から凱旋将軍の様な祝福を受けます。飲んで食べて満足した来客が、お土産に紅亀を貰って帰り、満月の祝いの宴は終わったのですが、当日宴会に来れなかった親戚縁者にお祝いの油飯を届けることがまだ残っています。この油飯には、紅く染めた卵、胡麻油煮の鶏腿、などを添えて丼又は平鍋に入れて届けます。受取った方では中身を空けた器に生の米を盛り、丸い石を一つ米の上に乗せて返す慣例。丸い石には、可愛い赤ちゃんが順調に成長して、赤ちゃんの頭、つまり考え方が、この石のようにしっかりする様に、という祝福が込められていて、間違っても石頭になれと言う意味では有りません。もっとも、舗装道路ばかりの都市内では石も拾えないし、なんでも商業化した現在では、これも専門の店が箱に詰めて配ってくれますので、最近ではお返しすることも無く、情緒指数ゼロ。つまらない世の中になりました。

          五 「四月日」 

満月のお祝いの後が四ヶ月の誕生日、「四月日」です。この日にも外祖母さんから又お祝いが届く事になっているのですが、大抵は満月と一緒にするので別にパーティはありません。この日の行事は「収涎シュウヌァー」と「鳶追い」。

赤ちゃんも四ヶ月頃になると首がしっかりして頭がぐらぐらしなくなり、家の外へ出しても大丈夫なほどに成長しています。と同時に涎が出始めるのもこの頃。涎は見るからに不潔でいい気持ちがしないばかりか、酷い時には赤ちゃんの顎が真っ赤に爛れる事も有ります。それで涎を少なくするおまじないをします。パンのような丸い平たいお菓子、又はアーモンドの菓子を糸で通してお菓子のネックレスを作り、それを赤ちゃんの首から下げてご近所廻り。近所の小父さん、小母さん達に、そのお菓子を割って食べていただくのですが、その際にお菓子の端でそっと赤ちゃんのほっぺたを撫でてもらいます。これで涎が収まると言うのですが、美味しいお菓子で、赤ちゃんの可愛い頬を一寸撫でるのは楽しく、皆喜んでしてくれます。もっとも涎には利かない様で、私の子供等は却ってその後当りから涎が多くなっていたようでした。

「鳶追い」。昔の農村にはとんびが沢山居ました。青く澄んだ大空をとんびが悠々と飛んでいる、そののんびりとした平和な風景を私は大好きで、いつも懐かしく思い出すのですが、実はそんな悠長な事ではなく、鳶は大好物の鶏の雛が目的。農家の庭先に放し飼いにしている鶏の雛を空の上から狙って、見つけるとさっと電光石火の速さで降りてきて雛を攫って行きます。それを追うのが子供等の役目。空の端に鳶の影を見つけると、庭で遊んでいる子供等は口々に「とんびャァィ、とんびャァィ(バアヒョウ バアヒョウ)」と叫び声を上げて鳶を追い払います。これから大きくなったらこの赤ちゃんもその仲間に入れて貰わねばなりません。それで、外の風にも絶えられる様になった四ヶ月の誕生日に、腕白仲間の小さなお兄ちゃんにおんぶされて、形式的に「とんびャァィ とんびャァィ」と空に向かって声を上げてもらうのです。これは将来この赤ちゃんが近所の子供等のグループに入る為の、交流の始まりの儀式の様で、ほほえましい習慣です。その他におんぶされて橋を渡ることもあります。大きくなったら何処へでもいかねばなりませんから、外界に繋がっている橋を渡るのは子供の将来の発展を願う意味でしようか。この時に橋を渡っておくと、将来乗り物酔いしないそうです。

          六 「トーチェー」(「渡済)「做大人」

次は生後満一年の誕生日。「トーチェー」と言います。以前の歳は数え歳ですから、この日には年齢は二歳になっていますので、満一年の誕生日でも「一歳の誕生日」とは言いません。一歳の誕生日というのは、アメリカ文化の影響が強くなったごく最近からです。
この日も母方のお祖母さんから赤ちゃんにプレゼントが届けられます。満月と同じく赤ちゃんの四季の衣類。しかし満月のような金属の装飾品も多くなく、もう歩けるようになる孫の為に、靴、ズボン、小さなオーバーコート、などが入れられます。世間に向けての大きな宴会もあまりなく、内輪だけのお祝いで済ませることが多いようです。

子供の誕生日にする行事は満一年の誕生日まで。古都台南では十六歳の誕生日になると、「做大人」と言って、読んで字の如く、大人になった祝い。日本の昔の元服や現在の成人式のようなのがあり、これも外祖母さんからしてもらうのですが、現在では殆ど行われていません。

嫁のお産の世話もですが、娘に子が生まれると里の親もご苦労様です。しかしこれらのプレゼントは、娘の産んだ長男と長女にだけ沢山揃えるので、次男次女以降は簡略されます。さもなくば、一斤十六匁の数を目標にせっせと産み励む娘を持った親は、たまったものでは有りません。破産してしまいます。

          七 親の誕生日

 幼少期の、親が祝ってくれる誕生日は別として、台湾で大々的に誕生日が云々されるのは、大体六十歳当りからです。六十代になると生活も安定し、家族も増えて貫禄もつきます。「五十知天命」とある如く五十歳を過ぎると天命を全うしたとされるほどですから六十歳の誕生日は大変目出度いと祝福され、この時は息子がパーティを開いて親の還暦祝いをします。以後からは毎年の誕生日にお祝いをしますが、十年毎の誕生日、古稀、傘寿、卆壽の祝いは特に大切で、大誕生日といって、大きく催されます。
親の誕生祝には息子だけでなく、嫁いだ娘からもお祝い品が届けられます。内容は各家庭の状況次第ですが、豚の足と紅亀、卵、そうめん等は縁起物で必要です。豚の足は「豚足を食べると足が強くなる」と言う言い伝えで親の健康を祈り、そうめんも、その長い事から長寿を意味して、紅亀は慶事にはつき物。親戚や、友人からのお祝いのお返し等に使います。息子と娘の作ったのは色が違いますから、貰った先では誰からのか解り、ゴシップ好きな暇人に、一族の円満を知らせることにもなる訳。

豚の足は、ぶつ切りにして骨ごと煮ると美味しいのですが、昔は栄養補給にもなったのでしよう。農村の子守唄にも「この娘が大きくなって豚足を買ってくれるのが楽しみ」(註②)と言った意味の歌詞が有り、親に豚肉を買って来る事は孝行になっていました。その煮汁で合えたそうめんも良い味です。私は以前、年長の親戚から、紅亀は親の歳の数に二つ足した数を作るべき、豚足は足だけでなく、豚の半匹そっくりとか、丸ごと一本の豚の腿、少なくとも豚の足に幾らか豚肉をつけること、と教えられましたが、今時、歳よりも二つ多い七,八十個の紅亀を持ちこまれては迷惑だし、豚肉もそんなに多くは食べきれないので、晩年の父母の誕生日には実用的に簡略させてもらい、現在は私の子供達にもそうさせています。

親の誕生日当日には家族全員が早起きして、砂糖で味付けした「甘い汁そうめん」を食べます。その長い形から長寿を意味しているそうめんは、親の長寿を祈る意味ですから、その時の、最初の一口のそうめんだけは噛み切ってはなりません。汁の中のそうめんを、少しだけ掬って、するすると手早く口の中に吸い込んでしまうのが要領。昔々、あるバカ息子が欲張って沢山取りすぎた為、そうめんが絡み合って長く伸び続き、切ってはいけないので立ち上がって食べようとしたがまだ高さが足りなくて、机の上に上がってもまだ駄目、はしごを持って来てやっとそうめんを食べることが出来たと言う笑い話があります。それほどでなくとも、要領が悪くて取りすぎ、大きなそうめんの塊を、目を白黒させながら飲みこんでいるのを、側からからかったり囃したりするのも誕生日ならではの光景です。  (素麺を食べやすくする為に、茹でる前に、人知れず台所で半分にちぎっておく。と、こっそり教えてくれた目上の方が居ました。)
茹でて赤く染めたゆで卵は、殻を剥く動作から、今までの厭なことを剥き捨てて、新しい幸せが来るようにと言う意味があって、家族が心を込めて一つづつ卵の殻を剥きます。

私の生家では、一般の台湾の習慣通り甘い素麺を食べた後、豚足の醤油煮、煮汁で合えたそうめん、紅卵を食べますが、主人の方の台南ではその日の昼食に「魯麺」というのを頂きます。

この麺は誕生日だけでなく、慶事の際に作られる汁麺です。材料は、台湾の昔ながらの黄色い麺に、蝦、韮、もやし、椎茸、豚肉の赤み、卵、エンスイ、にんにく少々、豚の大骨を長時間煮て作ったスープ等。 麺は茹でて笊に空けておき、蝦は茹でて皮を剥いておきます。韮は二センチほどの長さに切って、葉の緑が鮮やかに残るようにさっと湯通しします。もやしもさっと湯通し。豚肉、椎茸も茹でて千切り。エンスイは丁寧に洗って細かく刻んでおきます。卵は薄く焼いて細い千切り。材料が整ったら、熱した大鍋に油を引き、刻んだにんにくを炒めて鍋に香りをつけ、豚の骨からとったスープを一度に入れて塩、醤油、胡椒、酒各少少で適当に味付けしたら片栗粉でとろみをつけて麺汁の出来あがり。大ぶりの茶碗か丼に一人分の麺を入れ、豚肉、椎茸、韮、もやし、をいれて上から沸騰したスープをかけ、箸で適当に混ぜたら、蝦の剥き身、卵の千切りで色よく盛り付けし、最期にエンスイをまぶし入れて食卓に出します。食べる時、紅酢を少少たらすと香り高く、食欲を誘います。豚足の様に脂っこくも無く、美味しくもあるので、一膳では足らずにおかわりをする事が多いのですが、スープを熱く保ち、材料さえ揃えておけば簡単に早く幾つでも出せるので、台所の忙しい日には便利。次々と入ってくる祝賀の客にもすぐ出せました。何でもレストランで片付けてしまう現在と違って、昔の台所は何につけても忙しかったものでした。「魯麺」はその時の厨で働く女性の為に考えられた生活の知恵なのでしよう。


          八 三年続く傘寿

 誕生日当日の本人はゆったりと、ただ皆の祝福を受ければ良いわけですが、私の所では、里の父が自分の誕生日には必ず亡くなった親に向かって、健康な自分を産んでくれた感謝をささげていましたので、それに倣って、主人も誕生日の朝には必ず祖先を拝みます。それと使用人達へはお祝儀、孫達にはお小遣いを分けるのも我が家の習慣。孫達も心得ていて、貰わぬ先から用途を決めているとか。
二〇〇二年十二月三十一日の、主人の、慣例による八十歳の誕生日には、子供等と八人の孫全員がアメリカから帰ってきましたが、そうめんを食べる事でふざけ、お小遣いを貰うので騒いで、大変賑やかな誕生日の朝でした。以前も主人の誕生日には家族が集りましたが、今度は全員だったのです。クリスマスに続く新年をかねての休みに、アメリカから総勢十五人も、どっとこの家に入りこんできた、その騒ぎ、お察し下さい。一ヶ月も前から夜具を干したり買い足したり、部屋の整理。当日になるとベッドが足りなくて板の間で雑魚寝。八人の孫の胃袋は底がなくて、台湾の果物は美味しいと、丁度時期の蓮霧、ポンカンその他、果物屋が相好を崩す程消化しました。主人の誕生日当日までの時間つぶしにと、バスをチャーターして南部旅行に連れ出しましたが、孫どうしも普段余り会っていないわりにはパソコンでの付き合いがあるらしく、すぐ嬉しそうに打ち解けていました。それに加えて時差もあり、毎夜寝もせずに、台湾のものはなんでも珍しく、美味しい美味しいと食べて、ふざけて、笑い転げて------。もっと居たら、彼等に付き合っているこっちは体がダウンそうでした。

「孫は来た日と帰る日が嬉しい」と言いますが、でも最後の一人が去ってしまうと寂しいものですね。家の中が突然がらんとして寒いこと!「地球の温暖化なんて誰が言ったの!」と、主人と当時の写真を見ながら、あの騒がしかった日々を懐かしがって居るのだから、「ばあさんバカ」といわれても仕方有りません。

主人はこれに懲りずに、「自分は満年齢ではまだ七十八歳、数え年では七十九歳だが今年は習慣で八十歳と言い、来年は数えで八十歳、翌翌年は満で八十歳、と八十歳が三年続くから、三年続いて傘壽を祝える」といっていました。古今東西の例を一つに集めた数え方で、いい気なものでしたが、お陰さまでそれも無事にすごすことができました。

アメリカの科学雑誌によると、科学の進歩、殊に細胞生物学の研究で、人間の平均寿命が百歳、或いはそれ以上と延びるのも夢ではない、ということです。又アメリカの別の雑誌の発表に拠れば、旧約聖書に記載されている三百六十五歳から、九百六十九歳までの数人の人物の年齢が真実であると証明される日も来る事であろう。とされています。註④。この論法でいくと、中国の古い伝説にある、鼻祖が二千年生きたという話も、あながち中国式大法螺ではなくなりそうで、台湾式に十年毎に行われる誕生祝も、百歳、二百歳と高高齢の誕生日になる日もなきにしも有らず。
そうなれば、現代の高齢者の私達も、負けずに、九百六十九歳も生きた人々をお手本に、これからもしっかりがんばって行かねばならないという事なのでしよう。

                                       西暦二千五年三月三十日    劉 心心



註①「生得過麻油香 生没過睏杉板」(台湾語読み)   
   無事に子供が生まれたら胡麻油の鶏肉料理の良い香りを楽しめるが、失敗したら冷たい杉板の上に寝るはめになる。という諺。 
   台湾では、家庭内で息を引き取った場合、遺体はすぐに正面入り口の正廳に移され、納棺までの間、杉板で作られた臨時の寝台に移されていました。
註②改姓名
戦前、台湾では台湾人の姓を日本式の姓に変える事が奨励されていましたが、祖先伝来の台湾姓を日本姓に変えるの嫌がった人が多かったのです

註③「揺呀揺 猪脚双辺抉」
   女の赤ちゃんへの子守唄。母親が揺り籠を揺り動かして寝かせながら歌う歌。この子は女の子だけど、大きくなったら親孝行して、親の誕生日には大きな豚肉を買ってきてくれる。と言う意味。男尊女卑の頃、女児を産んだ母親の気持ちが込められているような気がします。

註④ アメリカの雑誌発表された科学論文の中で、旧約聖書にある、ノァの箱船以前に生存していたと言う長寿者の名前。Enoch 365歳、Methuselah九百六十九歳。(残念ながら私はその名前を読めません。クリスチャンの方ならお分かりでしょう、ご教示お待ちしています) 

Saturday, December 24, 2005

五日節 (日本の友人への手紙より)

五日節 (日本の友人への手紙より)
  
六月十五日は旧暦の五月五日、端午の節句の日でした。端午の節句は中国語では「端午節」といいますが、五日の日の節日ですから台湾では「五日節」と言います。ちなみに、端午という言葉は月の第五日、五日の古語でしたが、唐の玄宗の「端午仲夏」と言う詩から、宋、元と伝わるにつれて何時の間に五月五日だけが端午と言われるようになったと言う事です
その五日節の事を少しお話ししましょう。
 五日節は台湾では、新年、中秋節と共に一年の三大節で国定休日。お役所も大きな会社などもお休みです。
この日はどの家庭でも粽を食べるのが慣例で、別名「肉粽節」とも言われています。
もともと五月は、台湾の暦の上では毒月と言って、毒気の多い良くない月ということでした。ですから民間では、門口に菖蒲、榕樹、艾草の葉を束ねて挿し、「雄黄」という漢方薬の入った酒を飲んだり、或いは雄黄を入れた水で体を洗うなどし、子供達には虫除けの香料を入れた布の小袋を付けさせました。雄黄は駆毒作用が有り、形が剣に似ている菖蒲の葉、健康長寿を意味する榕樹の葉、毒消しの薬草艾草の葉等は、皆「毒月」の毒よけのお呪いです。治水の悪かった昔は、五月には洪水が起こりやすく「五日水」と怖れられていました。夏の洪水の後には疫病も蔓延しやいので、これらは、此れからの暑さに備えての健康を守る、昔の人の生活の知恵だったのでしよう。又、この日には卵を食べると綺麗になるとも言われるのも、夏ばて防ぎの栄養補給を意味しているのでしようし、莢付きの豆(菜豆)、と茄子を食べる習慣も、この野菜の名の発音に懸けて長寿を願い、元気良く溌剌とする様に、と言う願いからです。
五日節に欠かせないのは粽。その粽にはこんな由来があります。
 昔、中国の戦国時代、楚の国に、屈原と言う高官がいました。「大夫」と言って、国政に進言出来る地位です。人格者で学問もあり、常に国王に民の為になる政策を勧め、始めは信任が厚かったのですが、後に、奸臣の讒言を信じた無能の国王に容れられず、失望のあまり、とうとう汨羅江と言う河に身を投げてしまいました。一般の民衆に大変尊敬されていた人ですから、人々は嘆き哀しみ、深い川底に沈んだまま上がってこない屈原の亡骸が魚に食われ無い様に、魚達を満腹させておこうと、ご飯を竹の皮で包んだり、竹筒に詰めたりして沢山河に投げ込みました。それから毎年のこの日に粽を作って屈原の供養をしたのが、毎年のこの日に粽を食べる習慣になったのです。
 そんな悲しい歴史で始まった粽、でも、今では五日節に粽を食べるのは、楽しい年中行事の一つになりました。子供に下げさせた小袋も、最初は魔除けだったので、強く勇ましい虎の形が多く「虎仔香」と言われていましたが、だんだん精緻な手芸品になり、今では色取り取りの布で、粽や兔、人形などを形どった、時節向きの可愛いアクセサリーです。粽も、以前はどの家庭でもその数日前には粽作りに忙しく、各家庭の味を競いあったものでしたが、現在では市販で済ませるのが多く、此の頃になると市場に、伝統の肉粽(バァツァン)、粳粽(キーツァン、中国語では鹸粽と言う)、の他に、小豆餡のや、菜食者向きの粽、月桃の葉で包んだピーナッツ粽、戦後移住して来た中国各地方の人達の、それぞれの郷里の味や形の粽、と多種多様なのが出まわっています。
 我が家でも実家の母が存命の頃は、毎年母の指導で作っていました。母の粽は、伝統の肉粽(バァツァン)、家族自慢の粽で、母亡き後の今では、その味に匹敵できる粽に「絶対」出会うことが出来ないと言うのが、我が家族達の合言葉です。たまさか美味しいのに出会っても、それは「少しおばあちゃんのに似ている」と言うのが、その粽に対する最上の誉め言葉です。
 我が家の肉粽の作り方を記しておきましょう。
肉粽は少しだけ作るものではないのですが、我が家は大の粽好き、殊に他人の粽は絶対に不味いと決めてかかって食べたがらないので、弟妹達や、何日続けて食べても飽きない子供達、子供達の友達へのお裾け用、等の為に、多い時には二百個前後も作っていました。五日節にはご先祖様にも粽を供えますが、この日のお供えは正午を越えてはならないしきたりで、粽は前日に作っておかねばならず、従って下拵えはその又前日に済ませておきます。
 肉粽の材料は、①乾燥した孟宗竹の葉(粽を包むのに使う) ②粽を結ぶ乾燥した藺草の束(繊維が強いので、昔は野菜や肉などを結ぶのに使われていた。粽を結ぶのに最適) ③糯米(粒の長い形の品種)④豚の三枚肉と脂身 ⑤生の塩卵 ⑥椎茸 ⑦生のピーナッツ ⑧里芋(ねばねばした小さい衣かつぎではなく、大きくて、さくさくした品種) ⑨乾燥した葱の球根 ⑩醤油、塩、酒(米酒)、砂糖各少量。
 先ず、乾燥した孟宗竹の葉の束をほぐして暫く水に漬け、柔らかくなったら、新しいたわしで、注意深く、きれいに洗います。竹の葉は薄くて破れやすいし、時には蜘蛛の巣などがついているのです。腰がしっかりして丈夫な孟宗竹の皮(味噌を包んでいる竹の皮)を使う家庭もあり、その方が作りやすいのですが、粽らしい情緒がなくて母は使いませんでした。又月桃の葉も丈夫ですが、あの香りを嫌って、家のは必ずオリジナルな孟宗竹の葉と決まっていました。紐の束も水につけておきます。椎茸は水で戻し、蔕を取って5ミリ程の線切り。漬け水は捨てません。(その他に干し蝦や栗、干貝柱、干し牡蠣などを具に入れる人がありますが、母は嫌いました)糯米は洗ってざっと水を切り、ピーナッツは暫く水につけておきます。里芋は皮をむいて四五個の立て割りにし、蒸して置きます。乾燥した葱の球根はみじん切り(涙がぽろぽろ出て、此れが一番大変な仕事)。豚の脂身は二センチの角切り、その他の肉も二センチほどの長方形に切って(これは油で手がぬるぬるして苦手)、醤油と砂糖少量、米酒少量を混ぜ入れて漬けておきます。赤土で厚く包まれている生の塩卵は、土をきれいに洗いとって皮を剥き、白身は使わずに黄身だけを二つに切っておきます。私は、縫い糸の一端を歯で固定し、下がった糸を黄身に巻いて引っ張ると言う、伝統的な台湾の方法で切りますが、包丁で切るよりずっときれいに仕上ります。
 翌日は早朝から実家の母が来て粽作りの指導です。先ず熱した鍋に豚の脂身を入れて、ラードを作ります。出来たラードは一旦他の器に移し、鍋に残った油で葱のみじん切りを炒めます。この時、絶対に焦がさない様に要注意。いい香りが強く出るまで炒めたら半量程を鍋に残して、後は器に移します。鍋に、豚肉だけ(漬け汁は別途に使う)を入れ、刻み葱と混ぜて、味を見ながらゆっくり丁寧に炒めます。表面の色が変わるくらいに炒めたら、適量の水を入れ、、他の鍋に移して暫く煮ます。一方、空いた鍋は洗って、ピーナッツを、肉の漬け汁少少、塩、醤油各少量で味付けして炒め、これも暫く煮ます。(味付けは絶対に辛すぎない様に薄味で)。里芋の蒸したのは、一口大に切って、同じように炒めて味をつけておきます。最後に糯米を、残った肉の煮汁全部で炒め、半煮え近くになったら別の入れ物に移します。此れで材料が揃いました。次は竹の葉に材料を入れて包むのですが、仕事がし易いように高い所に渡した長い竿(物干し竿が最適)に藺草の束を掛け、使い良い様に身の回りに材料を並べて、さて、椅子に座ってじっくりと粽作りを始めます。俗語に「どんなに暑くても五日節までは冬着をしまうな」(無食五月粽 破裘不甘放)と言われているように、梅雨の前後の変わりやすい天気も五日節にはすっかり夏日になりますので、早朝からの台所仕事で、もうその頃は汗びっしょり、でも此れからが大変なのです。竹の葉を、角を下にした三角形に取り、まず糯米を、真中に具を入れられるようにあかして入れます。次に肉、ピーナッツ、椎茸各少量、塩卵の黄身半個等の具を入れ、上から餅米を被せ入れたら、竹の葉を折って、三角形の、粽の形に整えて、上から下がっている紐に一つづつ結び付けます。この時の形の整え方が下手だと、いびつなのが出来てみっともなく、結びが緩すぎると後で煮る時沸騰した湯の中で水中分解、きつ過ぎると中が半煮え、上手に作れない新婚の嫁さんが、先輩や年季の入った御手伝いさん等に笑われて口惜しい思いをさせられるのもこの粽作りです。家では、火加減、水加減を守るのは御手伝いさん。母が指導します。粽を包むのは私、私のは好い形に出来て固さも適当、母からも誉められていました。母が元気だった頃は母も包むのを手伝ってくれましたが、晩年には、包む私の側に椅子を寄せて、母子二人手を動かしながらの四方山話、噂話や思い出話に怒ったり笑ったり, 時には年とったお手伝いさんも話しに入り、時には突然凄い夕立に、開け放した窓から大粒の雨が降り込んで、材料を濡らすまいと大慌てしたり、何かの拍子に竿が外れて、粽の束が、突然ばさっと落ちてきて!!始末に、てんやわんやの騒ぎで大笑いになった事もあり、思い出すに懐かしい粽作りの午後でした。
 次は粽を煮る事、藺草の束は、家では深い大鍋のサイズに合わせて一束28本です。一束に28個を結び終えた粽は、大鍋に沸騰している湯で煮ますが、その際、一度湯の中に入れたのを、すぐに引き上げては下ろす動作を二三回繰り返してから蓋をするのが母の秘訣。こうすると鍋の中の粽の間に十分湯が行き渡って、深鍋一杯に粽を入れても出来あがりにむらがありません。こうして、ぐつぐつと四〇分間煮て出来あがり。
その頃にはもう子供達が下校している時間、待ってましたとばかりに入ってきて、熱つ熱つの粽が次々と解かれます。朝から指導していた母も一休みして一口試食。解くと、ぷーんと鼻先をくすぐる竹の葉の香り、白に近い程に薄い醤油色の、艶やかな糯米ご飯、箸を入れて割ると、中には黄色い塩卵に椎茸の黒、里芋のうすむらさき、柔らかく煮あがった、脂身の多い肉、ピーナッツ。相好を崩して食べている大満足の父と主人、「やっぱりおばあちゃんの粽は一番だ」という言葉が自然と出てきます。弟や子供達達の嬉しそうに頬ばる姿、台所では今年の出来映えを喜んでいる御手伝いさん。食卓の側では、尾を振っておこぼれをねだっている二匹の飼い犬。思えばあれが本当に家族の幸せだったのでした。
試食の間にも台所の仕事は休めません。鍋の中の粽は常に水を被って居る状態でなければならないのですが、茹で湯はすぐ蒸発して水位が下がるので、予備の大鍋に湯を沸かして時時継ぎ足します。蓋を開けて調べる度に、もうもうと勢いよく立ちあがる湯気、その脂っこい湯気にあふられる暑さ、そして、山ほどの材料を包むのも大仕事、一束出来あがった端から、間を置かずに茹で続けても、それらを包み上げ、全部茹であがるのは、何時も夕立も過ぎ、家々に灯が点った後。汗と油でまみれた凄い格好はさておいて、出来あがったのを、竿に通し、早く涼しい場所に移し終えて、この年の粽作りがやっと終了します。
 翌日の五日節のお供えには、肉粽と粳粽の二種類が必要で、母も若かりし頃には粳粽も作りました。粳粽は肉粽と同じく竹の葉に糯米を包んで茹でた粽ですが、材料が違います。粳粽に使うのは、取立ての鮮やかな緑色の緑竹の葉、糯米は短い丸い形の品種で、此れを洗って笊に空け、粳粉(中国語では鹸粉)と言う、アルカリ性の粉を少量混ぜ入れます。この分量が大切で、多く混ぜすぎると苦いし、少ないと茹で上がった粽は半透明にならずに、米粒の形が残って見難く固く、美味しくありません。要領は、包み終わった粽を手にとって振り、中の米の動く、かさこそという、小さい音が聞えたら丁度いい分量なのです。出来あがったのは半透明な黄色の、ぷりぷりした餅に近い感じの粽で、冷えたのに蜂蜜をつけて頂きますが、新鮮な緑色の葉と黄色の粽は見た目にも心地よく、夏向きの涼しい粽です。しかし加減が難しい上に、茹で時間もずっと長く、燃料の不経済などで晩年の母は作らなくなりました。
母も亡くなり、子供達もそれぞれ独立して、主人と二人だけになった今、私の五日節は、ご先祖様へのお供えの二種の粽と季節の果物、門口の菖蒲、菜豆と茄子を食べる事だけです。粽も市販の、木綿の糸で結んだ情緒ゼロのを少し買ってお供えしているだけ。以前の事が嘘のような簡単さです。
 端午の節句には、まだいろいろの行事があります。学者だった屈原を偲んで、毎年のこの日には詩会が開かれ、新聞などでも詩のコンテストがありましたし、東洋式ボートレースの划龍船(ペーリョンツゥン)(長崎のペイロンと同じ)はあまりにも有名です。端午の日の午時(うまの刻)、十二時きっかりに生卵を立てると、倒れずに縦に真直ぐ立つ。とか、この日の正午に汲んだ水は「午時水」といって、薬用にもなり、何時までも腐らないとか、子供の頃よく聞かされました。昔話のついでに、昔から伝わる端午の節句にかかわる話を記しましょう。
白蛇傳
昔々、山奥に白蛇の精と青蛇の精が住んでいました。初夏の或る日、仲の良い二匹の蛇の精は里に行きたくなり、白蛇は「白素貞」と言う名のお嬢さんに、青蛇は「小青」という召使いに化けて行きました。湖に船を浮かべて遊んでいると突然の大雨、蛇は雨は平気ですが今日は人間の姿です。困っている所へ許仙と言う人が通りかかりました。許仙は京に登って「状元」になる為に毎日勉強している貧乏学生です。親切な許仙は「私の所で雨宿りなさい。傘を貸してあげましょう」と二人を自分の家に誘いました。許仙の家で雨宿りしている中に、白素貞と許仙はすっかり気が合って、遂に二人は一緒になってしまいます。白素貞は許仙の所での貧乏に耐え切れず、何とかして金を作ろうと、一策を案じました。白素貞は元来が白蛇の精ですから幾らでも毒があります。その毒を青蛇の小青にそっと村中にばら撒かせました。そして、多くの村人が毒に当って困っている所へ、解毒の薬を、何も知らない許仙に持たせて直させたので、許仙は一躍名医になり、裕福になりました。
さて許仙が上京して役人になる試験の日が近ずき、猛勉強のため、許仙は金山寺にこもります。金山寺の住持法海法師は徳の高い和尚さんですから、許仙を一目みるなり事情を悟って、「あなたの顔は異様に黒ずんでいる。きっと魔物に取りつかれているのだ。注意しなさい。私が妖怪退治をしてあげよう」と言いましたが、許仙が信じないので、法海法師は雄黄の粉を少し包み、「端午の節句の日にこれを酒に混ぜて彼女に飲ませなさい」と言付けました。雄黄は蛇などの毒を退治する薬です。いよいよ端午の節句、許仙は節句のご馳走の時、白素貞がなかなか応じないのを無理に誘って酒を飲ませました。酒の中には予め雄黄が入っていたので、白素貞はたまりません。苦しくなって部屋に駆込み、許仙が行って見ると、大きな白蛇が床にのた打ち回って居るでは有りませんか。驚いた許仙は助けを求めて法海法師の所に駆込みました。許仙を追って行った白蛇の精は、寺の外で法海法師に夫許仙を返せと迫りますが「お前は山に帰れ」と法海法師は許しません。其処で法海法師と白蛇の精の法術比べが始まりました。白蛇の精は大洪水を起して寺を水浸しにしようとしますが、水嵩が増す毎に法海法師は法術で寺の塀をどんどん高くして防ぎました。所が水は村中に溢れ、多くの死者が出てきます。其処で考えた法海法師、白蛇の精が身ごもっているのを利用して、法の力で子供を産ませてしまいました。出産で気力をそがれた白蛇の精はとうとう負けて、法海法師に大きな鐘の下に被せられ、雷峰塔と言う法塔の中に閉じ込められてしまいました。
白蛇の精と許仙の間に生まれた男の子は、後に京に登って「状元」の試験に合格し、位の高い役人になりましたが、自分の母親が塔の中に閉じ込められているのを嘆き、何とかして母を助けたいと、郷里に戻って鐘の前に額ずき、一心に祈りました。祈っては母を慕って泣くその心根がとうとう天に届き、突然鐘が割れて中から一匹の大きな白蛇が現れ、昇天して行ったと言う事です。
ここまで書いて、私は、歌舞伎の道成寺の、安珍清姫の物語にも、鐘の下に閉じ込められた蛇の話があるのを思い出しました。白蛇傳と道成寺の物語と、何処かで繋がっているかも、と思いますが、私の貧しい知識ではどうにもなりません。 
唐詩の一節に「獨在異郷為異客、毎逢佳節倍思親」(独りで異国に居ると、佳節に逢う度に、殊更に親しい人達の事が懐かしく思い出される)と有ります。私は異国に居るのでは有りませんが、歳でしようか、五月節の此の頃、昔の事、母の事等がしきりに思い出されます。懐かしさに、私の経てきた五日節を記しておきたくなり、机に向かいましたが、思い出が思い出を呼んで尽きる事無く、こんなに長くなってしまいました。年寄りの繰り言にお付合い下さいまして、ありがとうございました。

            獨在異郷為異客、毎逢佳節倍思親。
            遥知兄弟登高處、徧挿茱萸少一人。 王 維

                     2002年6月21日  心心
                                                      

北 海 の 氷 野

あの海を、もう一度見たいと思っていた。
 ノ―スウエスト航空の、ロスアンゼルス―東京間の航路にある、あの氷の海。
幸いに今度の座席も進行方向に向かって左の列、何時もの様に主人に窓際の席を譲ってもらった。
さて、と座席の個人テレビの、現在位置を示すチャンネルを開けたが、故障している。後部座席に待機しているエァアテンデントを呼ぼうかと思ったが、出発直後の忙しさが終わったばかりで一息着いているらしく、呼ぶのも気が引けて、時々窓を開けて、目的の海を自分で見つけることにした。
ロスアンゼルスから陸伝いに北上、カナダを経てアラスカの海岸線を通り、千島列島から日本に入るコ-ス。今日も晴天だ。
ロスアンゼルスを飛び立ち、サンフランシスコを過ぎて間もなく、だんだんと濃くなった眼下の雪景色が、アンカレッジ付近では遂に一面真っ白になった。見渡す限り深い雪に覆われたアラスカの山々。道もなく、川も見えず、湖も覆い尽くされて、見えるのは唯永劫の雪を頂いた山のみ。白色の清純、静寂の美、人跡未踏と言うよりも、足跡を許されるのは神のみ、と言った敬虔な気持ちになる。出発して既に数時間、大方の乗客が寝ている機内の静けさに、雪の連峰の上空を、大型旅客機が音を殺し、巨大な太古の鳥のようになって、しんしんと移動している光景を想像する。
ふと、若し此の飛行機が此処で不時着したら?と、いつものあの思いが頭をかすめる。
旅行社のパンフレット、航空会社の広告等で見るのは、常に快適な機内サ-ビスであり豪華な食事であるが、飛行機が飛び立って一番先に乗客が知らされるのは、万一の場合にどうやって機内から脱出し、どうやって命を保つかということである。勿論、絶対安全を信じてでなければ機上の人となることは出来ないが、それでも一抹の不安は消しがたく、年に何度も太平洋を西へ東へと飛んでいる私は、何時の間にか、窓外の景色を見下ろしながら、通りすぎる場所をそんな目で見る癖が着いてしまったのだ。
此処なら、此の山の中なら、「神の懐……」という気持ちがするかな?と思う。
いよいよ待望の氷原が見えて来た。何度見ても凄い!凍ったベ-リング海!それともアリュ-シャン列島?そんな地理などどうでもいい。海が凍って見渡す限りの氷、氷野だ!これは、ぽかぽかと浮いて流れている氷山なんてものではない。大海原変じての大氷野である。あらかじめ海岸線の色を覚えておいたので、今眼下に見えるのは海だと確信できるが、まるで北極からずっと地続きのように見える。一万メ-トルの高度からの俯瞰で、機窓一杯に迫る白、白い色以外には何も見えない。さっきまでの山々の様子とは全く違って、唯唯白く、無限に広く、息の詰まるような迫力!この高度からでは一望無尽のフラットな大平原にしか見えないが、ここらには多分胸突く氷山もあろう。此の大氷原の上で生き、生活をしている大小の動物を思う。完全な無音の中で黙々と歩き、夏の夜には、大空一杯を舞うオ-ロラを見上げているであろう孤独な北国の動物達、彼等はオ-ロラに何を思うのであろうか。
機外は日が燦々と輝く日中だが、到着地東京の現在時間は夜中、それに合わせるのか、機内は窓のシャッタ-を下ろして暗くしてある。私の所だけ窓を開けていて「明かりが入る」とシチュワデスが注意に来たが、窓を閉める気にはなれず、シャッタ-を少しだけ引き下げた。氷原の岸から、今眼下に見えている場所まで何キロ、いや何十キロあるのか?こんなに厚い氷の層では砕氷船も此処までは来れまい、それを足の不自由な身が、居ながらにして、肉眼で見下ろしているのだ。科学の偉大さ、だがそれにも増して此の美しさ。目が吸いつけらて離れない。
眼下の景色は白一色だと思ったのが、暫く行くと所々に薄い灰色がかった場所も見える。氷の下の海の色だ。多分そこは氷の層が少しばかり薄いのかと思う。灰色が紺になって、湖のように見える場所もある。これはもっと浅い氷の層だろう。凍った氷の厚さで氷野の上に描かれている地図。刻々と変わる氷の海、息もつかずに見ていると、所々に氷の割れ目が見え出した。氷は直線に、直角に割れている。細く長い割れ目から垣間見える濃紺の海、あくまでも深く、暗く、地獄のように冷たそう。事故でも、此処では絶対に堕ちて貰いたくない。こんな大氷原をどうやって救助隊がたどり着けるであろう。同じ事故死でも、あんな凄い海の溝では、どんなにか冷たいことか。冷たいのは嫌だ。と、またもあらぬ事を空想して震え上がってしまう。此処は無事に通過して欲しい。
日付変更線を過ぎたかと思われる頃から、氷の割れ目がだんだん大きく多くなってきた。氷野は、大きな不等辺四角形に分けられ、徐々に面積を減らしている。暖かい黒潮のある日本が近づいたのか。
行くうちに、濃紺の溝は少しずつ海の様子を取り戻し、流れているように見えてきた。氷野はもう無く、海上一面、四角の細かい氷の群れ。細かいといっても、此の高度から見ての話で、実は大きな氷山が無数に浮いて流れているのであろう。航路がずっと南になったようだ。
そういえばもう三月。初春である。氷の海にも春は近い。
氷野を後にし、ほっと息をつく。
目の奥に先ほどの興奮をしまい込んで、私も暫く寝た。

         氷原の 割れ目に春の 兆しかな
1999.4.15.

孫達のハロ―イン

 ハロ―インの装束は、怖いものほど良いのだそうである。
 ハロ―インの頃の、アメリカの町に出たことがあった。店頭に、気味の悪い髑髏を描いた黒い衣装や大きな蜘蛛の巣が掛かっていたり、西洋のおとぎ話に出てくる魔法使い、例の、長い箒を持ち、黒の長いぼろ着を着けた、やせ細って目は窪み、尖ったかぎ鼻の老婆が、行く手を遮っていたり、と、至る所で驚かされて、その気味の悪いこと、しかも、その中を大人に連れられた幼い子供たちが、喜々として、もっと奇抜なもの、もっとおどろおどろしげなコスチュウム、と捜し回って居るのである。どういった典故から出ているか知らないが、ハロ―インの夜には、子供たちがそれぞれそういった怖い衣装を付けて化け物になり、家家の扉を叩いて回る習慣があちらにあるのだ。来られた家では心得ていて、そのお化け達にと、キャンディを準備して上げる事になっている。
 初冬の午後は暮れやすく、チャイムの音にドァを開けると、真っ暗闇の中に、骸骨ゃ妖怪など、気味の悪い装束を着けたのが立っているのは、それが習慣であるとは知っているものの実に気味悪くぞっとさせられて、私の憶病な妹などは、ハロ―インの夜は絶対に外出せず、家に居てもドァに近寄らないようにしている。そんな大人の様子も面白いし、キャンディも魅力、夜の屋外を人を威かしながらさまようのも楽しくて、これは子供等の大好きな習慣でもある。元来が子供を大切にするアメリカである上に、多分「厄よけ的」な意味があるらしく、以前はどの家でも喜んで迎え、ちゃんと子供等の好みそうなのを用意して待っていた。しかし、世の中がせち辛くなるにつれてキャンデイの質もだんだんと低下し、最近ではハロ―イン用の安いキャンデイで間に合わせているのが多いとか、それに、ある性格異常者がキャンディに毒を入れたとか言う噂まである。それこそ恐ろしい事である。
 今年の、孫たちのハロ―インの様子をオ―バ―シ―電話で聞いた。
シカゴの次男の所では、長男のデリックが忍者になった。幼稚園での流行りなのか、その母親エミ―の日本趣味の影響か、デリックが、一番強くて他人に脅しの聞くものと思っているのは忍者、黒い布を頭からすっぽり被せ、目だけを出して首のところで緩く縛って忍者の出来上がり、去年のその夜は、雨の中を出かけて風邪を引き、肺炎になって入院までした。今日も雨で寒いから今年は行かせないつもりだと、昼間の電話でエミ―が言っていたが、帰宅した次男が、それでは子供が可哀そう、折角の楽しみなのに、と、よい父親ぶりを発揮して、夕食後連れていってあげたとの事、四十を越してもまだ悪戯っ気の抜けない次男、本当は彼自身が行きたかったのかも?
「デリック喜んだでしょう!でも風邪引かせたら怒られるわよ?」
「大丈夫」
「キャンディに毒が入れられた事があるそうよ」
「もう食べたよ、美味しくなかったけどね」
知っているのにわざと一つ食べて見る、何時までもしょうがない悪戯っ子の次男である。
ヒュ―ストンの次女の子パトリックは、大好きな今流行の玩具の虎の衣装。
「着せたら、とっても可愛かったのよ」
目を細めた、幸せそうな笑顔が見えてくるような、電話の中の甘い甘い母親の声。子煩悩の最である彼女の、息子自慢は聞き慣れている。
「キャンディは?」
「あんなの捨てましたよ!」
確かに、大事な大事な一粒種のパトリックにあんなキャンディを食べさせたか?とは愚問であった。
長女の一人息子フレディは今年は何もしなかったらしい、もうそんな事は彼には幼なすぎるのだろうか?私がまだ若かった頃のこと、丁度居合わせていた私に、「フレディのハロ―インの衣裳を作ってあげて」と長女が白い古シ―ツを出してきたことがあった。アメリカ生活にまだ日が浅く、どういったものを作ればよいのか、全然見当もつかなかったし、もともと裁縫の苦手な私なので断ったが、後で、あちらのお母さんが手際よくさっさと白いお化けの衣裳を作って上げたと言う事があった。一代で大財産を築き上げてしまうようなお人は、やっぱり、することがてきぱきして私なんかとは違う、と感心したものである。その方も、もう亡くなってしまった。その時のお化けの衣裳はその後、針仕事の出来ない長女の為に随分役立ってくれたらしく、フレディのハロ―インは何時も白いお化けであったという。二人の女の子、ジェニファ―とエンジ―は、幼かった頃、どうしていたのであろう、大学生と高校生になっている今の彼女等には、そんなの、もう興味もないであろうし、末っ子のフレディも、もうハロ―インには出ない年になったと言うことは、私の娘が母親としての一つの段階を越したということになる。それだけ娘が成長し、私達が年をとったということであろう。
ミシガンの長男の嫁は、六年生のキャサリンが、チアリ―ダ―、応援団や楽隊の行進でダンスをしている少女達の先頭を行くあのチアリ―ダ―に扮したと、娘の美しく少女らしくなった姿が嬉しそうな報告であった。アメリカ人の友達をうらやまらしがらせるほど手足がのびのびと長く、活発で、人目に立ちたがる彼女が好みそうな扮装である。
「アンドリュウが今年のハロ―インに何になったと思う?」
と、得意さを隠し切れないような声は長男からの電話、小学校四年生、日頃から漫画が好きで想像力が豊富、時々自分でも漫画のスト―リ―を描いて楽しんでいる彼の長男アンドリュウ、今年の怖いもの競演になんと「税務署の役人」に化けてしまった。なるほどこれは怖い!学校内でのハロ―インのパレ―ドで、アンドリュウの胸に着けた「税務署」という大きな札を見て、先生が「これが一番恐ろしい」とおっしゃったそうだ。人の意表を突いたその面白い発想に私も大笑い、アンドリュウも得意そうであったが、最も鼻を高くしたのはその父親であろう。
「アンドリュウの話しでは、クラスの生徒達は誰も、税務、と言う字を知らなかったそうだ、アメリカ人の子供たちは純真と言うのか世間知らずというのか?」とついでに報告。
「漫画なんか読んでいるから、そこからヒントを得たんだろうよ、はははは」
と、地球を半回りする長距離電話の代金を忘れたかの様に、笑い続ける親馬鹿振りであった。
そして、それに輪をかけた様な、お祖父さん馬鹿、お祖母さん馬鹿は孫達のハロ―インの事が面白く、さかんに友人や親戚達に自慢し回っていたのでありました。
        一九九五.十一.十,

大停電

八月十四日午後四時十一分。私は嫁とスーパーマーケットのレジの前に並んでいました。
正確に言えば、アメリカ、ミシガン州デトロイト近郊の住宅区、西ブルームフィルドの商店街。
 あと一人で私の番なので、財布を出して待っていると、突然、音も無く電灯が消えました。台湾ならまだしも、アメリカでの停電は意外。「こんな大きな店でもヒューズが飛ぶ事も有るのね」と、電気の付くのを待ちながら、後ろに並んでいた若いお母さんの抱っこしていた赤ちゃんと遊んでいましたが、暫くしても回復しない電気に、「アメリカの工事屋さんは、立派な車で遠い所から来るのだから、却って遅くて不便ね」等貶して居る中に、買物を諦めて帰る人も出てきました。でも旅行中の私は「この次に」というわけには行きません。市民の生活を大切にするアメリカの事、すぐ直る。とたかをくくって更に待つことしばし。とうとう諦めて「一つだけだから、支払いさせて」と頼むのに、レジが止まって精算できないと腕を拱いている会計。「一体アメリカ人って言うのは、筆算も出来ないの?こんな馬鹿店員、いいからよそで買いますよ」と憤然と店を出ました。
 見ると、どの店からも人が出て来ていて、なんと、ここ等辺一体の停電らしいと判明。クーラーの止った店内の暑さに、店の前で腕を拱いている店員達。停車場もがら空きになっていました。道路では既に警察か、軍隊らしいのが、止ったトラフイックライトに代わって交通整理。車の中のラジオで、どうも、もっとすごい広範囲の停電らしいと察して、家に知らせようとしたら、ケイタイも応答無し。これは近くの電波発射台も動けないのに違いない。と、この時になって、心配し始めた私達。道に溢れる車の列を避けて回り道し、急いで帰りました。
 家では長男が、パソコンがスゥーと消えたり付いたりを繰り返したので、故障を防いで消し、主人と孫は、突然切れたテレビに、手持ち無沙汰で電気の来るのを待っていて、誰もがこれがあの大停電の始まりとは思ってもいませんでした。
 飛びこんできた私達の知らせで事態の大変さを知ったものの、電気がないと言う事は、何一つ出来ないと言う事なのです。殊にアメリカでは。
 テレビなし、パソコンなし、電話も此方は電線を利用しているので電話もなし。何処からも消息が得られず、僅かに車の中のラジオでの消息も、声が途切れ途切れ。辛うじて通じた孫娘のケイタイで電力関係の人から得た消息では、カナダも入れた北米一帯の大停電で、原因不明。修復のめどはついておらず、長期に亙るとの事。電気がないので飛行場も閉鎖、すべての離着陸予定の航空機は近くの飛行場を利用するようにと指示されています。主人は数日後の国際会議に行けなくなるかもと心配し始めました。「大丈夫よ」と答えながら、実は私も、どうしてこんな事がアメリカに、という思いでした。
 ラジオからは「これはテロではない」との、ブッシュ大統領の宣言。二年前の九月十一日のあの大惨事から、もうすぐ二周年目を迎え様としているこの頃の、飛行場での安全検査の厳しさ、ニュースによるイラクでの惨状、などから、誰でもすぐ思いつくのはテロ?という事です。政府としてはいち早くテロ否定の宣言を出すべきなのでしょう。それを信じる事にして,ただの故障だとしたら、世界に冠たる超現代科学国家のアメリカさんも、こんなへまをする時も有ると言う事。子供等がここに住んでいるとは言え、所詮私はよその国の人間。野次馬までは行かなくても、こんなへま、一寸皮肉っても見たくなります。
 ミシガン州は、普通この時期はとても涼しいのですが、その日は、例年にない暑さ、近年来の最高気温でした。エヤコンが止った室内は台湾並み。日頃湿りっけが強くて敬遠している地下室の、ひんやりした冷たさが、今日は却って一番快適な場所です。長男の勧めで「まるで防空壕に避難するみたいね」と其処に降りました。地下室と言っても、この家は土地の斜面に建っているので、一階の玄関からでは地下室でも、裏では地階、庭に面した壁一面のガラス戸からの光線が結構明るく役だっています。台所では、まだ日のある中にと、嫁が夕食の仕度を急いでいる様子。幸いな事に、ここでは最近煮炊き用の火をガスにして居たのでした。
 長男と、地下室のドァから、裏庭に出てみました。刈ったばかりの芝から上る青草の香り。二本のりんごの大木からは、多く成りすぎて枝に付かないりんごが、青く小さいまま一面に落ち転がっています。傍らが少し欠けているのは、栗鼠が試食して捨てて行ったのでしょう。栗鼠も食べない不味いりんごに、傾きかけた晩夏の夕陽が優し                                     く当っていました。庭の中ほどの一叢の潅木には、満開の橙色の小花、こちらの花に潜り込んでは又次の花にと、蜜を求めて蜂が盛んに飛びまわっています。飼い犬のロッコが私達を見つけて駆け出てきたので、さっきから叢に蹲って私達の様子をうかがっていた野兔が、急ぐ様子も無くゆっくりと彼方に移っていきました。潅木の茂みの隙間は、毎朝りんごを食べに来ている、子連れ野鹿の通り道、時には川縁に、蛙を目当てのコウノトリが立つこともある奥の小さな流れ。車の騒音も、遠くから聞えていた工事の音も、飛行機の爆音も、皆消えている空に、塒に帰る小鳥の声が楽しそうです。静かな平穏無事な裏庭。停電騒ぎはここにはありません。電気なんて、彼らには関係のないこと、突然襲った大きな不便、不安に気もそぞろの人間達をよそに、自由に空を飛び、野に遊び、何時もの生活の営みを続けている自然界の生き物達。万物の長と威張っている人類より、実は彼等の方がずっと強いのかも?と考えさせられました。
 突如静寂を破って救急車のサイレン。救急車だけは、動くのです。唯一使えるバッテリー式のラジオから、ガソリンスタンドが動けなくて大勢の人が車を使えなくなっている。との報道。頭をよぎるのは、止った電車に閉じ込められている民衆の姿。真っ暗な地下道。つい最近見た、デトロイトの貧民街の悲惨な生活、あの中に住む、職を失っている黒人達のこと。彼等がこの停電の不便さに乗じて、何時暴動を起こしても不思議ではありません。
「ラジオはバッテリーを節約してニュース以外は開けない様に」「車に残っているガソリンも非常用に残して、なるべく車を出さないこと」「冷蔵庫もなるだけ開け閉めしない」等などを家族に指示していた長男が、ゴム管に向かって、ふうふう吹き出しました。見ると、熱帯魚の水槽に息を吹き込んでいます。これぞまさに「人工呼吸」。停電で空気を貰えなくなった魚達の動きが、既にのろのろとしていました。
 暗くなったダイニングルームよりはと、今夜は蝋燭を付けてベランダでキャンドルディナー。何時もより皿数が多いのは、氷の溶けかけた冷蔵庫内の、ストック食品の処理でした。解け始めて、食べ頃に柔らかくなったアイスクリーム。ふにゃふにゃのケーキ、ダイエット計画は休んで、今夜は皆のお腹が冷蔵庫代りでした。
 何時まで続くか知れない停電。それならそれを逆手にとって楽しもう。と、食後はキャンドルパーティ。事毎にすぐキャンドルでムードを出したがる西洋の生活に、何は無くとも蝋燭だけは事欠きません。丸いの、四角いの、長いの、細いの、水に浮かべたのまでも集めたら、結構好いムードになりました。明かりを求めて自然に集った家族達。何度聞かせられたか知れない年寄りの昔話も種が尽きると、孫がバヨリンを持ち出しました。最近練習したと言うアイリッシュの歌。ピアノ伴奏は孫娘、長男もギターで合わせます。つい何年か前までは、キィキィと鳥肌の立つような音だった孫のバヨリンは、今では高校のオーケストラのファーストバヨニストに成っているというだけあって、音痴の私が結構楽しくなる演奏ぶりでした。まだ時間は宵の口、何時もなら友達を尋ねて、とっくに飛び出ている孫達、食後はパソコンの前に固定されている長男、大リーグに目が離せなくてテレビに吸い付いている主人、停電でなかったら、こうして家族全員が一室に集って一夜を語り合い、歌い興じることが有るでしょうか。何やら知れず、はしゃいで、誰彼にと無く甘えかけている飼い犬のロッコ、台湾土産に持ってきたという竹団扇をゆっくりと扇ぎ、私はソファに長々と寝そべって、この幸せな時間を感謝していました。
 天井から下がっている電灯の、電気の付いていない真っ白な電球、これ一つだけで何十ワットなのを、電気のあった時には特に明るいとも感じなかったのに、今卓上にある六個のキャンドル、ワットにして僅かに六ワットがこんなにも明るく感じられる、人間の感覚の面白さね。と孫達に言いましたが、私の気持ちをどれだけ理解できたか、下手な英語交じりの台湾語と、下手な台湾語を無理に使っている英語族の孫達。血の繋がりは争えなく、結構親しんでくれている孫達では有るけれど、普通の会話から一寸踏み込んだ事を話すには、いつももどかしさが先立ちます。
 蝋燭では危ないからと渡された懐中電灯で寝室に入ると、床の上にくっきりと窓の形をした意外な明り。中空に掛かった月からのプレゼントでした。ブラインドを高く巻き上げ、思いっきり多くの月明かりを取り入れる私。黄いろく、青く輝く光、空を見上げれば、辺りを明るく照らして、吃驚するほど近く大きな月。思いがけない月明かりに驚いて詩を読んだ古人、月を相手に酔って踊った昔の人、月の下のシエックスピァの妖精達。詩も歌も出ない私は、幼い頃、十五夜に母と月を愛でた事などを思い出していました。気が着けば、外では虫達の大合唱。リンリンと、美しい音色は鈴虫なのでしようか、クーラーで閉ざされいた部屋の外で、毎夜繰り返されていた自然の美。停電がくれた、北国の晩夏の夜のロマンでした。
 ロマンチックな想いに酔っているのは、責任の無いお婆だけ。長男夫婦は停電との対応に大変です。何度も寝室に顔を出して、私達の様子を気遣ってくれる長男夫婦には、折角台湾の夏を避けて涼みに来たのに、との文句も言えません。朝になれば、どんどん解ける冷蔵庫の食品の始末、お腹に入れる食べ物と、だめになったゴミ箱行きの食べ物をいち早くえり分けて処分、朝食の分はなんとか間に合わし、昼食はとうとう缶詰食品とインスタントヌードルになりました。スーパーも閉っているし、夕食はどうしよう。慈雨のようにタイミング良く降ってくれた昼過ぎの大雨で、今夜の暑さはなんとか我慢できそうだし、明りもキャンドルの在庫は充分だが、食べ物は民生問題、戦時中でも、芋の葉っぱくらいはあったのに、これでは籠城以上です。
 あれこれ思案の最中に、突然パッと電気がつきました。「ついたぁーっ」と孫娘の悲鳴のような叫び声。家中が思わず拍手していました。ダイニングに集った家族、明るい明るい電灯の下で「エジソンって、本当に偉い人ねえ」と感嘆する私。すぐテレビがつけられ、エヤコンが策動、でも問題はまだありました。
 二十九時間の停電中に、地域の家庭用水の大タンクでも、水を押し上げるポンプが止っていて、大タンクの水が底を着いていたのでした。嫁がせっせと生ぬるくなった冷蔵庫の中を洗っていると「少なくなりすぎたタンクの水の中に、バクテリヤが入っている怖れがあるから、水は嗽水までも5分以上沸騰させてから使用するように」とのラジオ放送。だんだん細くなる水、食用水の確保に又主婦が忙しくなりました。すぐに二階のシャワーも、水洗便所も使えなくなり、残りは地下室のシャワーだけ。それも細々の水で石鹸が流されず、粘々したままの肌の気持ちの悪い事。たった一つだけ使える地下室のトイレも、水槽が一杯になるのに時間が掛かって、だから「小の方は毎回流さないで、蓋をしたら臭くないから」というのは、戦中の我慢生活を経てきたおばあちゃんにだけ通じる話しで、孫達は目をむいていました。困惑の二.三日。やっと水が正常に戻って、水洗からサ―ッと水の流れる大きな音が聞えた時の嬉しさ、あの聞きなれた音は、どの音楽よりも心の癒される音でした。物は無くなってこそ有り難さが解る。「何時までもあると思うな親と金」の諺に「電気」も付け足さねばなりません。
 数日後、「この度、我々はアメリカに十憶ドルもの損害を与えたが、自分等が使ったのはたったの七千ドルだった」という、アルカイダ組織からの犯行声明がありました。遅すぎる犯行声明と、ブッシュの早過ぎるテロ否定声明と、どっちの信憑性を重んじるかは、各自の勝手です。
 後日、数日に亙ったこの、6萬1800メガワットの大停電の報道があり、全国で5000萬人、ミシガン州だけでも200万人が被害を蒙ったとありました。又、家に帰れなくて、ホテルに泊まろうにも、安全の保障が出来ないからと拒絶されて、止む無く路上でごろ寝するニューヨーク市民、マンハッタンの長い鉄橋を、遠い我が家目指して黙々と歩く人達、電気が付いたら一番にガソリンを入れられるようにと、夜もガソリンスタンドに置かれっぱなしの車の、長蛇の列、止ってしまったエレベーターの中に、十八時間も閉じ込められた中年婦人、等など、市民の困惑振りが報道されていました。確かにこの大停電は、アメリカに大きな損害を与えましたが、その反面では、今回の停電期間中、カナダ、ニューヨーク、ミシガンなどの広範囲に起こったにもかかわらず、全区域に渡って(ニュヨーク、デトロイトのスラム街にですら)一件の暴動も起こらず、却ってお互いに助け合う美談が幾つも生まれていた。とも言っていました。テレビには、自動発電のある店の前に集った民衆が、持ち前のユーモァを発揮して、楽しそうにギターを弾き、ダンスを始めている光景も有りました。白人、黒人、中東の人、アジヤ人、突然襲い掛かった大災難の前には、種族、貧富、文化の隔たりはなく、皆一団となってこの大災難にめげずに、笑って過そう。そう言ったメッセージが私には受け止められ、それは胸に染みる美しい光景でした。犯罪都市として有名なデトロイト市の黒人市長は、「大停電中、デトロイト市での犯罪記録はゼロであった事を誇らしく思う」と、テレビで言っていましたが、1965年と1977年にもこれに似た大停電があり、当時のニュヨークでは大暴動が起こっていたのでした。
 この大停電によって、アメリカの一般民衆の、一旦緩急の場合に対しての態度の良さ、引いては文化水準が高められていた事が、期せずして世に示されたこと、そして更に、これが自分達の日頃の不備、(送電網の老朽?)などが改善がされるきっかけになるのであれば、この停電はアメリカにとって損ばかりでもなかったでしよう。
そして、旅行者にとっても―――。何はともあれ、旅行中の私達まで停電の不便に撒きこまれるのは、二度とご免ですから。    二〇〇三年九月八日

プールサイドで

今年の夏、私は三週間ばかりテキサスの長女の所に居ました。テキサスの夏の暑さは格別でしたが、私はそこで毎日裏庭のプールで水遊びをしていたのです。
水の中で歩くと膝の運動になると言われているので、プールに入るのも、実は今度の旅行の目的の一つでした。
私は、プールはここのにしか入りません。よそのプールは衛生が信用できないし、この体形を衆人環視の中に晒す勇気もありません。孫達は、「安心よ、おばあちゃんよりずっと肥って見っとも無い年寄りでも、平気で入っているから」とへんな慰め方をしてくれますが。其の孫達にも私は見られたくなく、以前来た時には、孫達の、学校に行っている時間を見計らってプールに入っていました。あれから何年たったのでしようか、孫達は皆大学に進学して他所に居るので、今年は誰にも気兼ねなく水着姿になれました。プールの淵に沿って植えられた潅木が、水に影を落としていて、其処なら涼しいのです。
プールに入るのは何年振りでしょうか。昼近くの日差しに暖められた水はそんなに冷たくなく、足をそろりそろりと差し入れ、腰、胸、と体を沈めて、首まで入った時の快感。そろりそろりとプールの縁を掴みながら木陰に向かって歩く私をかばって、長女が浮き板を持って水に入って来ました。金槌の私には浮き板が必要なのです。以前来た時、浮き板を取り落として水の中に沈没した事がありました。あわてて、体が逆様になっているのも知らず、必死になって足をめったやたらに蹴ったのですが、当然の事に足が底に付く筈がなく、幸い直ぐ傍に居た長女が引っ張り上げてくれて命拾い。立ち上がってみたら、実は胸ほどの深さの所で溺れかけていた訳で、面目も無かったけど、確かに怖い思いでした。それもあるし、膝もずっと弱っても居るので、この危なっかしい母親を一人で水に入れてはいけない。と言うのが、子供達の約束だったようです。すらりと形良く痩せている長女の水着姿はとても美しく、こんなに綺麗なのに一人ぼっちになって、と不憫な気持ちが心を過ぎります。
でもそれはそれで、私は気に入った水遊びに毎日熱中していました。水の中での足の体操。バレーのように足が自在に動いてくれます。其のうちに水に慣れて怖く無くなり、浮き板を使ってプールの端から端まで泳ぎの真似事をしたら、見物に来ていた次女が 「マミ凄い、太平洋横断だ」 と囃し立て、プールサイドで小説を読んでいた主人まで水の中に引き入られてしまいました。
毎日そうして二時間ばかり遊んでいましたが、水の中に長い事浸かっていると、水の浮力に慣れて、上がる時、体がとても重く感じられます。それも水遊びの経験の少ない私には面白い発見だったので、ある日、長男との電話で、その嬉しさを話しました。そしたら彼答えて曰く「河馬がどうして何時も水の中に居たがるのか解るでしょう」そして続けて「こんな例えは一寸マミには悪かったかな?エヘェへェ」ですって。何も母親が肥って居るったって、河馬はないでしょう。憤慨して主人に話したら、彼、物凄く喜んでしまって、それからは私の事を河馬と呼ぶのです。浮き板を抱いてバシャバシャして楽しんでいる私の前に泳いできて、
「河馬 河馬 河馬ちゃん 河馬姑娘 チャカチャカチャンチャン 河馬おばさん」
と囃し立てます。でも、こっちは足の付かない深さに居て浮き板から手を離せず、反撃の仕様がありません。
そっと、誰も見ていない鏡の前に立ってみました。テキサスの真夏の太陽に、毎日一.二時間も晒された肌は、浜の漁師さんもかくやとばかりの赤銅色、娘の家で毎日することも無く、ごろごろしているので、またまた増えた体重とこの体形。なるほど河馬と言われるのもむべなるかなと、秘かに長男の形容を感心してはいるのですが、主人にこうからかわれては頭に来ます。ですから、陸に上がってから主人を「痩せ猿っ」と言い返すのですが、どうもこっちに勝ち目は無さそう。
更にいけないのは、水辺の薮蚊。台湾に戻る前の日の午後、お別れにもう一度プールに入ったのです。「午後は蚊が居るから」と言う娘の忠告をすっかり忘れていました。涼しいと喜んで入った潅木の蔭に潜んでいた、物凄い薮蚊の大群。アメリカの蚊はとても大きく、まるで蠅の様な大きな羽音をさせて、その執拗な事。急いで木陰から日向に出てきても、飢え切っているのか、ずっと付いてきます。浮き板は命板ですので手を離せず、やっと背の立つ場所まで来てから払い除けましたが後の祭り、既に顔中を刺しに刺されていました。「言ったじゃないの」と薬を付けてくれながら言う娘達の傍で、さすがに主人も一言もありませんでした。
赤くはれ上がったのが顔や額際に羅列して、台湾に戻っても凸凹顔は暫く消えず、とんだアメリカ土産でした。
更にもう一つ。
河馬ではないけど、私は本当に水に浸かって遊ぶのが好きになってしまって、何時までも上がりたくありません。それにストップを掛けるのが体の内側から来る生理的要求。つまり、おトイレです。プールの横には、別棟になってピンポンルーム、バーベーキュープレース、更衣室、と並んでトイレもあるのですが、婿も亡くなり、子供達もそれぞれの大学に行ってしまっているこの家、トイレは時折来る庭師達が使っているだけで、埃だらけ。面倒でも私は母屋に入って自室のトイレを使う事にしていました。その日もそれでプールから上がったら、一緒に居た次女が「誰も見ていないから、そこらの芝生で用を足せば? 私が庇ってかばってあげるから」と言うのです。「駄目よ。いくら誰も見ていないからって、そんな事できません」と言う私に次女曰く「大丈夫よ。エマだってそうしていても大丈夫なんだから」。エマとはここの飼い犬の名で、家族同様の大型ポインターです!!!!!!! とうとう母親は河馬ではなくて犬と同格にされました。しかし「エマだってそうしていても大丈夫なんだから」とはちょっとおかしい、と聞きただしました。正解は エマは何時でも芝生の上におしっこしているけど、芝生はその為に枯れてしまう事がなかったから、マミのも「大丈夫」芝生に取っては無害。だと言うことでした。この娘は食物の農薬にとても神経質で、私の数少ない英語の単語の中に、「オーガニック(無農薬)」と言う言葉が入っているのも、毎日彼女から聞かされているからです。食物転じて植物の農薬にも関心を持っている彼女、何はともあれ芝生への被害?が真っ先に頭にきたのでしよう。
河馬にされ、犬と同格になり、芝生にも遠慮しなければならない母親。一体私の子供等は母親を何と思っているのでしようね。でもこの事は主人には言いませんでしたよ。又何を言われるか知れませんものね。前車の轍は踏まぬ事です。
アメリカでの休日の報告でした。  心心より 2005年10月4日

名前(心心と言う名前)

 配達されてきた郵便物に、「あて所に尋ねあたりません」と付箋が張られた封書が入っていました。
 戻って来た封書の宛先の中野陽子さんは、最近、六十年振りに逢った小学校時代の同窓生です。
六十年、半世紀以上も前の同窓は、一足飛びに老人に変わっていて、始めは初対面のような恥じらいも有ったのですが、そのうちに見覚えの有る以前の顔が見えてきて、陽子さんも入れた数人の老同窓生達は、隔たれていた歳月を取り戻し、楽しいお喋りに時の過ぎるのも忘れていました。
 今は「一昨さん」になっている中野さんは、その時の話の中で「台湾に居た頃、李淑徳と言う方と仲良しで一緒にバイオリンを習いに行っていた。懐かしい」と言っていました。あの有名な音楽の教授なら妹がよくお付き合いしているから、お伝えしましよう、と言って台湾に戻った私が、事後報告を出したのがその手紙です。
 住所は間違っていないし、一体どうしたのか、お互いこの歳だから、若しや?と思ったりしているうちに、だんだん心配が昂じて、その日の集りを計画してくださった幹事の方にメールしました。
「どうしたのでしよう。若し住所の変更でもありましたらお知らせ下さい」
というのに折り返し来た返事は
「中野さん(一作さんの事)とても元気でしたからご安心ください。住所の変更はないとの事です。あなた
 はまさか、中野陽子と書いたのではないでしようね。それなら届きません」
「あっ、一昨さんを旧姓で呼んでいたのだった」
と私はその時始めて気がついたのでした。
 日本では、大抵の女性が結婚すると夫の姓に変わり、養子縁組以外の、既婚の女性を旧姓で呼ぶのは失礼にもなるとは聞き知っていましたが、問題は中野さんとの約束。あの時手許にペンは無かったし、物忘れの酷い此の頃のことだからと、「中野さんと李淑徳さん」「中野さんと李淑徳さん」と、馬鹿の様に何度も繰り返してしっかり頭に叩き込んでいたのが、封筒の表書きの時に出てきて、一作さんが中野さんになったのでした。
「正にお察しの通り、宛名を中野陽子と書いていました。貴方からのお指摘があるまでは全然思いつきもしていませんでした」と平身低頭の私。
台湾と日本の習慣の違いでした。
折り返し来た返事には「会話の時には旧姓で呼んでも、親しい間なら問題ありませんが、日本の郵便局には通用しません。日本では結婚する時、どちらかの姓を名乗るかを決めて届けるのだが、別々の姓を名乗る事はできず、現在、別別の姓でも良いではないかと論議が起り、国会でも議案に上りかけたが、可決されなかった。然し、将来はご夫人が旧姓を名乗る事が出きるようになるでしよう。」と説明までついた上に、台湾でも普通の人は結婚前と後では名前が変わっているのに、私の名前だけが変わっていないの少し不思議に思っている。とも付け加えられていました。
 台湾では、結婚後は「冠夫姓」と言って、元来の姓の上に婚家の姓を附けるのが一般の習慣です。例えば私は、主人の姓の「葉」を附けて「葉劉心心」となるのですが、「冠夫姓」をせずに元来の姓のままで通す事も出来ます。私は親から貰った名前を変えるのがいやで、ずっと「劉心心」で通して来ました。ですからお役所の届けも、保険も、勿論郵便も、私宛のは「劉心心」で届きます。ちなみに此方では、お勤めしている女性は、既婚、未婚に関らず、職場では押しなべて娘時代の姓で呼ばれます。つまり、若かろうが、婆さんであろうが、私なら職場では「ミス劉」であり、「劉小姐」なのです。(小姐―シャウチェ―はお嬢さんと言う意味で未婚女性の呼称)。手紙の宛名の場合も名前の後に「小姐」と付けますが、既婚女性の場合には「女士」と付けます。これは日本での「様」に当る、女性の敬称ですが、独身主義の女性の多い此の頃、結婚適齢期を過ぎて、子供の二三人も居そうに、くたびれた格好をしているからと、うっかり「女士」と付けたら怒られますから、私は、よく知らない場合には全部「小姐」にして出しています。(男性の「様」はおしなべて「先生」です)
 習慣の違いといえば、アメリカでも結婚すると女性は夫の姓に変わります。
1950年代に主人がアメリカに留学していた頃、今のように夫婦同伴で出国することも出来ない時代で、会いにも行けず、電話はとても高くておいそれとは掛けられずで、通信は専ら手紙だけでした。
「私の名前だけが変わっていないの少し不思議に思っている」と幹事さんが思っていたのだとすると、当時、アメリカの習慣を知らずに、劉姓のままで出していた私の手紙も、ワイフからのだとは思われていなかったかも?それにしても幹事さん、まさか私を主人のガールフレンドとでも思っていたのかしら?
 こう言った誤解は、私が自分の姓を通したいと主張したためでしたが、ちなみに私は「劉氏心心」と呼ばれるのも嫌い、小学校時代に既に先生に「劉心心」と直してもらっていました。昭和の始め頃の台湾の刊物に、「以前の女性には名が無く、ただ劉氏の長女とか、陳氏の次女とだけ言っていた。女性に氏をつけるのはそこからきている」と大変女性を馬鹿にした乱暴な言論が出て居ましたが、一説には、日本の領台初期に、台湾人の名に慣れないお役人さんが、男女の姓をわかりやすくする為に女性に「氏」をつけたと言うのも有ります。
 小学校時代の私にそんな事が解っていた筈はありませんが、何故日本の友達には姓と名の間に「氏」が付かず、私だけが「劉氏」なのかと。幼心に反発と屈辱を感じていたのでした。現在では、昔の世代の老人が氏を着けた名前をそのまま使っている以外は、もう皆「氏」を付けていません。ただ、女性が亡くなった時の告別式には、故人の名に「氏」をつけます。これは、大家族が一つの家に住んでいた時代、家庭内の女性達、つまり、複数の息子の嫁達や、妾達(当時は妾が多いのを男の甲斐性としていたし、大抵一つ屋根の下に同居していました)を識別するのに使われた封建社会の名残りではないかと思います。例えば私の母の、告別式での名は「劉媽林太夫人」となりました。旧姓が林ですので、婚家の劉と合わせて、「林家出身の劉夫人」となった訳です。こういう呼び方は、現在では故人の里方を尊重した呼び名として使われているようですが、一種の戒名のようなもので、告別式にのみ使われ、間違っても生きている人には使えません。
 台湾人の名前については、戦時中に改姓名と言うことがありました。当時の日本政府の、台湾人に対する「皇民化政策」の一環です。家庭内で国語(当時は日本語)を話している家庭、「国語家庭」と一緒に奨励され、多くの家庭が先祖代々の姓を日本の姓に変えていました。それでも林姓は「小林」「大林」「中林」陳姓は、中国の頴川に有った祖先の有名な故事を記念して「頴川エガワ」などと、祖先の名を残す様にした姓が多かったようです。
 私の名前でこんな事もありました。
私の名の「心心」は、父方の伯父が名付け親で、「父親と母親二人分の愛情のこもった子供」と言う意味で、心、心、と心が二つのなのです。
    ――主人に言わせると「夫に対して二心ありの名」だと言う事ですが、これは彼の勝手な解釈――。
 世界中どこでも同じだと思いますが、一般に、赤ちゃんの名前には、その子の幸福を願う気持ちを入れて付けられます。台湾でも、大抵の人は美しい名ですが、中に、親の希望をそのまま名前にするのも少なくありません。男の子を願っていたのに女の子ばかり何人も続いて産まれた家では、次は弟を招き入れてくれるようにと、「招弟」と名付け、次に産まれたのも又女児なら今度は「好仔」(もう結構と言う意味)、その次も又女児なら「満恵」。恵は女の子の名としてよく使われる字で、「女の子は満ち溢れています」と言う意味、それでも又女の子なら、「冏市」(台湾語の同音で、仕方がないから育てると言う意味)。これはまだ良い方で、都会にはあまり見られませんが、一昔前頃の地方では、易者に運が悪いと言われた嬰児が、厄避けの意味で「乞食」「豚糞」「牛糞」「却(台湾語の拾うと同音で捨て子の意味)」など、最も人の嫌がる名前を付けられているのが、珍しく有りませんでした。
 196〇年代の或る日、私宛てにお役所から
「この度、政府の徳政により、特定の人に対してのみ名前の変更を許可する事になった。ついては、あんた
 の名前は聞こえが悪いから、何月某日までに区役所に名前変更の申請に来るように」
と言う通知が来ました。ご丁寧に例として前述の迷信的な名前が列挙されていて、私の「心心」が、「乞食」「豚糞」「牛糞」と同列になつていたのです。
戦時中の改姓名にも応じなかった当時38歳の私。
「長年一緒に過してきたこの名前、絶対に変える気持ちはありません」
と抗議に行きましたが、これは政府(当時は蒋介石政権)の「徳政」による御恵みだから、と相手にされません。台湾が彼らに不法占領されたばかりに、ろくに学が無くても役人に成り上がる事が出来た、中国からの難民。この輩の無知と思い上がりの公文書に、怒ったのは私よりも「心心」の夫でした。彼は怒った勢いで直ちに役所に
「一体あんた達は、この名付け親がどんなに学門のある方か知っているのか」
と怒鳴り込み、お蔭で私の「劉心心」が助かった次第です。
再びメールの主から
「名前が変えられなくて好かった。あなたの名前が変わったらどんな名前になっていたでしよう」
と来ました。人の話を引出すのが上手な彼です。
 高飛車に命令されると絶対に服従したくなくなる私ですが、実は私には(宜恵)という名前がもう一つあるのです。(よしえ)ではなく、(ぎぃふい)と台湾語読みです。
 東京で女児が生まれたと知って、台湾に居る伯父が、早速「心心」と名づけ、留学中の父も間もなく卒業して台湾に戻ることだし、と、本籍地の嘉義で出生届を出してしまいました。所がそれとは知らず、東京にいた私の両親は産まれた赤ん坊を歓迎して、よくぞ恵まれてくれたと言う意味で「宜恵」と名づけて、「恵」だけを取って呼んでいました。それで爾来、私は外では「心心」ですが、家庭内では「恵」なのです。
 赤ん坊の「宜恵」は両親の寵愛を一心に受けましたが、それにもかかわらず、ひ弱で瘠せて、目がぎょろぎょろして、黒く、実に見っとも無い赤ん坊だったそうです。
よっぽど可愛げのないベビーだったらしく、生後間もなく台湾に連れて帰られたこの、お猿さんのような赤ん坊を見て、
「自分だったらこんな醜い赤ん坊、台湾にまで連れかえらずに、内台航路の船の中においてくる」
と、口の悪い父の友人が言っていたと聞かされました。
さて、この醜い赤ん坊も成人して婚約をしたのですが、私達はただ一度の簡単な見合いだけで、付き合いもせず、父が決めての婚約でした。
 婚約は、実に初対面から三日目。仲人は主人の叔父で、父の東京時代からの親友。当時高雄高等商業学校の校長先生をしていらした、非常に誠実な方です。父はこの親友を全面的に信頼していましたので、帰台後十数年も会わなかったにもかかわらず、この親友の「間違いの無い青年」と言う一言で娘の婚約者を決めたのでした。
 台湾の旧習では、婚約は二回に分けて挙行されます。一回目は結婚承諾の意味の、ごく内輪の儀式。二回目は親戚友人を招待しての大々的な婚約披露。そして最後が結婚式です。その一回目の儀式の後、大任を終えて夜汽車で高雄に帰る仲人ご夫妻を見送っていた彼が、突然発車間際の窓際に駆け寄って何か聞いていました。大笑いする叔母さん。彼は婚約者の名前を聞きただしていたのでした。確か相手は「心心」という娘だったのに、名前が違う、と言うわけ。私も父母と共に見送りに来ていたのですが、その時の、親子の対話では私は「恵」だったのです。初対面から婚約まで、全然逢っていないのですから無理もありません。一方主人の名の「英堃」もあまり使われない古字で、私の家では当時誰もその字の読みを知らず、それで私達も彼の名を何と呼ぶのか知りませんでした。
 又、当時は名ばかりでなく顔もよく覚えていませんでした。たった一度の短い見合いでは顔など覚えられず、私が覚えていたのは彼の眼鏡だけ。「大きな眼鏡で、まるで水牛に踏み潰された蛙みたい」が、私の、彼から受けた第一印象。彼のは「なんて目ばかり大きくて色が黒い娘だろう」でした。しかもその後、彼は、ずっとなしの礫。心配した母が私に電話をかけさせました。ですから数日後の初デートでは、どんな人だったか、自分の記憶に自信がなくて、約束の大学病院のロビーに母に付き添ってもらい、若い人が入って来るたびに二人で首を伸ばして「この人?違うみたいね?」と探していました。
 顔も名も知らない相手と、親の言いつけのままに婚約する。そう言う時代だったのです。
 心心と言う名はよほど珍しいのか、世に「心心」と言う名があるのがどうしても解せない戸籍係の若い女の子に、「新新」でも「星星シンシン」「欣欣シンシン」(中国語での発音)でもないと説明するのに苦労したり、紛失届けに行った先で若い係り員に、「わあー ロマンチックな名だ。もう少し若かったらデートを申しこむんだったのに」と言われて怒ったり、アメリカの、重刑犯を収用するので有名な刑務所がシンシン監獄と言う名かと思うと、温泉街のラブホテルの名が「心心」だったり、心心と言う名がこんなに多様なハプニングを起すとは、名付け親の伯父も、思いも依らなかった事でしょう。
宛名の書き違いが、思わぬ思い出を引出して、又長いお喋りになりました。もう筆を置きます。
心心 二〇〇三年三月二十九日