Saturday, January 21, 2006

三年続く傘壽

       


          一 ややこしい八十歳 

   二〇〇二年の十二月三十一日に私の家では主人の八十歳の誕生祝いをしました。

台湾では、台湾語の犬、「カゥ」と同音の「九」(狗)、を不吉な犬だと言って嫌い、九の付く歳を厄年として、この歳の年齢は歳を一つ足して言います。こう言うことは若い頃にはあまり気にされずに済まされますが、一般に四十九歳の犬が最もたちの悪い犬で、大厄の年と言われて、四十九歳の年には、絶対に、年が明ける早々から、「今年は五十歳」と自他共に言います。そして其の年の誕生日には四十九歳の厄年が既に過ぎたという意味で、五十歳の誕生日をします。(数えでの年齢です)ややこしいですね。

二〇〇二年に主人は数えで七十九歳になりましたから、慣例ではこの年の誕生日には厄払いとして八十歳の誕生祝いをするべきなのですが、彼の誕生日、十二月三十一日は大晦日で、九の字の付く年を年一杯に過しているから、これでも厄払いになるかな、と思ったのですが、やはり慣例にしたがって、十二月三十一日に八十歳の誕生日祝いをしました。

孔子の言葉に「三十而立 四十不惑 五十知天命 六十耳順 七十随心所欲」と言うのがあります。これによると、人の一生は三十歳で事業を安定させ、四十歳では生活の方向が確立して迷わなくなり、五十歳になるとそろそろあの世に旅立つ人が目立ってきて天命を知らねばならなく、干支を一巡りして六十歳まで生きられたら、もう随分年取ったのだから、おとなしいご隠居さまになって若い人の言うことに耳を傾けなさいというのらしいですね。七十歳は古稀で珍しいから我侭を言っても好いのでしよう。八十歳の教訓は有りませんから八十歳は殆ど考えられない長寿だったのでしよう。孔子自身七十二歳で亡くなっているのですから、八十歳の心境は、さすが賢明な「孔子様もご存知ではなかった」のかもしれません。

 孔子の説によると、昔の平均寿命は五十歳程なのでしようか、現在では六十、七十歳は珍しくもありませんが、あの頃の六十歳は長寿に入っていたのですね。それで台湾では、大抵六十歳の誕生日から十年毎に祝い、(日本で言う還暦、古稀、傘壽、卒壽、)祝宴の規模は歳を重ねる毎に大きくなります。
  
還暦も古稀も傘壽も、大切な誕生日ですので、それにちなんで、私の知っている台湾の誕生日の行事を書き記しておこうと思います。
先ず、一生の間で最も意義の有る一番始めの誕生日、正にその名の如くその人の産まれた当日の事です。
        
二 「出産」「月内」

誕生日は、母親が出産で苦しんだ日なので、こちらでは「母難日」とも言われています。
台湾の諺に「安産なら産室に胡麻油の香りが漂うが、悪くすると冷たい板の上の身」。(生得過麻油香 生没過睏杉板)(註①)と言うのが有るように、衛生環境の発達していなかった昔、女性にとってお産は命がけでしたので、台湾では昔から出産を大切にし、産婦は殊のほか大切にされていました。

有名なキリスト生誕の物語では、三人の賢人に迎えられて馬小屋で産まれ、生まれた瞬間から人々に敬われていたキリストですが、その母親のマリヤ様は馬小屋でどんな産褥の日々を送っていたのでしよう。又、世継ぎの世子の誕生を見届けるために大勢の貴族が産室に詰めていたと言う、西洋の王族の出産風景も感心できるものとは思えません。その点では台湾の産婦は幸せだと思います。
すべてを産院なり病院で済ませてしまう現在と違って、自宅出産が当たり前だった戦前は、お産が始まると産室には夫すらも入れませんでした。出産の苦しみにあえぐ女性の姿は女性にしか見せられないのです。産後も、お産で疲れている産婦を労って産室にはごく近親の女性しか入れず、夫も長居は無要。男児出産ならば一ヶ月、女児なら二十八日後の床上げの日まで産婦は産室から出なくてもいい、つまり家事からも一切免除。という事になっています。

一ヶ月間の休養期間は「月内」(グゥエライ、産後一ヶ月以内の意味)と言われ、産婦がたっぷり休養をとって健康を回復させる事が出来るように、貧富に関らず必ず中年の、世故に長けた女性がついて世話をしていました。(経済状態で雇えない場合は、お姑さん又は産婦の目上の女性がその任に当ります)。其の間、産婦は毎日上げ膳下げ膳の待遇。以前は使い捨てのオムツ等なく、必ず洗って何度も使っていましたし、粗末な生理用品で産婦の衣類なども汚れますが、嬰児の世話、汚れ物の洗濯、赤ちゃんのオムツ洗い、一切その女性がしてくれます。産婦が月内に水仕事をすると年取ってから関節が痛むと言う言い伝えです。長い豊かな黒髪を髷に結っていた昔、洗った髪はなかなか乾かず、風邪から、引いては肺炎、産褥熱の原因になったりしていたのか、洗髪もご法度。パーマの髪はすぐ乾くのに、かまわずに洗った私は南部の目上から、「年取ったら頭痛に悩まされる」と小言が届きました。産室は産婦が風邪引ひかないようにと、窓などなるべく閉めていましたので夏は大変!(扇風機も回せません)
産婦の食事は殊に大切で、特別の献立があります。

その献立の代表的なのが「胡麻油鶏酒」。鶏のぶつ切りを胡麻油で炒め、生姜をたっぷり入れて、水を使わず唯酒だけで煮こんだ鶏肉の汁料理です。(酒は高かったし、酒に弱い産婦などもいて、スープには水を足す事も出来ましたが、なるべくなら全部酒で似るのが好いとされていました)。この、「鶏酒」と呼ばれるお産の象徴ともされる料理は、毎食必ずつきます。農村では、嫁が妊娠したと知ると、この時の為に早くから鶏の雛を育て始めていたものでした。この月内の時にしっかり栄養補給をしないと後々体が弱るとの言い伝えがあり、嫁にしっかり食べさせなかった姑は悪く言われるので、普段けちなお姑さんもこの時ばかりは、歯を食いしばってでも毎食の「鶏酒」を欠かせませんでした。ちなみに、台湾の昔の結婚風俗に、結婚の翌日新婚夫婦が揃って里帰りする行事がありました。その里帰りの帰りに、新婦は里から縁起物として色々持ち帰るのですが、その荷の中に、必ず一対、又は偶数対の鶏の雛鶏が入れられていました。台湾語で「家」と同じ、ケェと発音される鶏は、家を興すと言う意味で縁起が好いのです。一説には、まだ声変わりしてなく、夜中に母鶏を慕って鳴く雛鶏の鳴き声は、生家を離れて一人で見知らぬ家庭に入り、人々の寝静まった夜に親を慕って泣く若い嫁の泣き声を隠してくれるから、とも言われていますが、しかし、この雛鶏がすぐに大きくなって数も増え、一年後のお嫁さんのお産に役立つからだと言うのが実質的なのでしよう
(昔はバスコントロールなどしていませんでしたから、一年後には必ずお産があるものとされていて、結婚の祝辞にも、来年の今頃又「鶏酒」をご馳走になりに来ますよ。と言う言葉があります)鶏肉が非常に高価な食品だった頃、鶏料理は特別な時にだけの料理でした。

「鶏酒」はとても香ばしく、煮ているとその好い匂いは、所謂「麻油芳」(胡麻油のいい香り)となって家の外にも漂い出、近くを通る人々は、この家に赤ちゃんが生まれた事を知って頬を緩ませるのです。産婦にだけの特別食でしたが、勿論家族もあやかって毎日食べられ、鶏酒スープの強い酒で昼間から顔を赤くしている夫が、「妻が月内で、夫は月外だ」と冷やかされたりするのもほほえましい風景でした。

次は油飯。(ユープンと言って胡麻油で蒸したもち米ご飯。端午の節句の粽のご飯と似て、豚肉、椎茸、干し蝦など具沢山)。産婦の栄養食ばかりでなく、いわば日本のお赤飯の様な用途としても使われます。出産が無事に済むと、その家では、まずご先祖様に出生の報告と御加護を祈りますが、お供えものは、産婦の食事の鶏酒と油飯です。油飯は、大抵出産の翌日辺りから、産婦のご飯として出されます。その他に、お八つとして、柑橘類の砂糖漬けを胡麻油で揚げたもの。飲み物は漢方薬を煎じたのや、黒豆を煎って湯で沸かした黒豆茶が勧められ、お乳の出が悪い産婦には、乳の出を促進させる為に、豚の足のぶつ切りをピーナッツと一緒に煮たスープ。下り物を早く終わらせるための漢方薬の薬湯(墨汁の様に真っ黒で気味が悪いのですが、幸いなことに私には強制されませんでした)。腎を強くするように豚まめの胡麻油スープ。等などです。このような栄養たっぷりの豪華食が重要視される反面、制限も沢山ありました。野菜類、魚介類は漢方医学的には体を冷やす食べ物、肉類は体を温めて栄養がつくとされていた当時、経済の許す限り、三食とも肉食。野菜はほうれん草など二三種、魚も鯛などの高級な魚以外は一切食べさせません。昔の台湾人は、宗教的な観念から牛肉を食べませんでしたから、勿論ビーフなるものは食卓には出ません。

食事制限は旧家になるほど厳しく、野菜、魚介類が駄目な上に、お冷やも勿論駄目、果物、ことに西瓜、蜜柑などもご法度でした。蕎麦もその長い形から汚れが長引くと、禁じられています(そうめんは別)。夏の出産で、扇風機をどんどん廻し、うどんを食べ、食後に西瓜もアイスクリームも食べた私に、「なんて野蛮な」とこの時も里の伯母からのお小言が届きました。 

この豪華版食。この制限。産婦の為を思った食事でしようが、現代の食生活になれた私達の世代には余りありがたくなく、始めの頃はこのご馳走を喜び、この時とばかりに頬ばったものでしたが、あまりにも毎食だし、他の物は食べさせてもらえないし、其の内に厭いて、「月内」の終わる頃には「鶏酒」を見ただけで泣きたくなったと、旧家に嫁いだ従姉が、産褥中、誰にも干渉されずに、食卓で家族と自由に何でも食べていた私を羨んでいたそうです。実際、材料からして大変カロリーの高い食品の上に何もしなくて唯授乳して、寝て居ればいいので、毎食の麻油鶏酒、砂糖漬けの胡麻油揚げ、黒豆茶、と一ヶ月続いた後の、産婦の体重、体格には目を見張るものがあったものです。

          三 「報喜」「剃頭」

出産も無事に済み、赤ちゃんも順調に育つと、婚家では赤ちゃんの生後十二日目に嫁の里に「報喜」というのをします。読んで字の如く、嬰児出生の報告です。通信の発達した現在、赤ちゃんの生まれた事は電話一本ですぐ地球の反対側にまででも届きますから、これは必要と言うよりも嫁の里に対する礼儀なのです。「報喜」の行事では、出生の報告として、「鶏酒」を鍋ごと届けます。代表的な産婦の食事が、全部を物語っているのです。鶏酒鍋には、ぶつ切りにした鶏一羽分全部入っていますから、里では受取った後この中から鶏の頭、二つの手羽、鶏の足、を選り取り、赤い紙に包んで返します。これは鶏一羽を象徴し、この次のお産にもこのように食べられる様にと言う意味。それにそえてのお返しに、産婦の「鶏酒」用にと偶数羽(四を除いた)の鶏を持たせることもあります。

「報喜」がすむと次には嫁の里の母親が新しい孫へのプレゼントを用意するのですが、それは生後一ヶ月、赤ちゃんにとって人生第一回の誕生祝の日(満月と言います)のことで、その前にもう一つ、生後二十四日目に赤ちゃんの頭の産毛を剃る行事「剃頭」が有ります。剃るのは目上の、年配の女性、若い人では危なくて任せられません。産毛を一度剃ってしまうと将来、髪が多く綺麗になるといわれ、私の次女は当時髪が薄くて殆どつるつるでしたが、やはり形式的に剃ってもらいました。彼女が現在でも人一倍濃い髪を持っているのはそのお蔭かもしれません。

「剃頭」では、まず、ぬるま湯を張った小盥にゆで卵を二つ入れたのを用意します。その湯で赤ちゃんの髪を湿めらせ、縁起の言い言葉を赤ちゃんにつぶやきかけながら、丁寧に剃ります。生後たった二十四日間しか経っていない赤ちゃんの髪は、あまり伸びていない気がするのですが、産毛を剃った後の顔が急に新生児から脱皮して、成長を感じさせる顔に見えるから不思議です。お湯の中のゆで卵は、その形から「円満な生活を」と言う意味ではないかと思います。

          四 人生第一回目の誕生祝。「満月」

いよいよ満月の日、その人の人生第一回目の誕生祝の日は、又、出産の無事を祝い、新生児のお披露目をする日でもあり、油飯と鶏酒をご先祖様のお供えする他に、親類縁者を招待して祝宴を開きます。主賓は新しい孫へのプレゼントを携えた嫁の里のお祖母さん。(此方では外孫、内孫に対して、母方の祖母を外祖母と言い、父方の祖母は内祖母です)。勿論外祖父さんも重要な賓客ですが、この時のプレゼントは一般に「外祖母からのプレゼント」と言われます。外祖父さんは費用だけ払わされて名目なしとは損な役柄です。
「外祖母からのプレゼント」は各家庭の経済状況、習慣に拠りますが、台南の例では、赤ちゃんの衣類及び装飾品と、お祝いの饅頭です。饅頭は中国語での饅頭でなく、日本のまんじゆうと同じようなもので、中に甘い小豆餡が入っています。皮の材料の小麦粉が麺と同じで、楕円形の形が亀に似ている所から、台湾語で「麺亀ミークゥ」と言い、表面が食用紅で紅やピンクに染められているので「紅亀アンクゥ」とも言います。

-------------実は途中まで書いて麺亀の皮の材料の名称が解らなくなってしまいました。「以前はメリケン粉と言っていたけど」と従妹と相談。二人で頭を傾げた挙句、彼女が「メリケン粉が、今は小麦粉と呼ばれるようになっていた」と気付いて、「メリケン粉の改姓名ね」と二人で笑いました。註②    
    戦前の日本語しか知らない私達です-------
話が又それました。

台湾では祝い事に必ずと言っていい程この紅亀を使いますが、これも用途によって種類が違い、男性の方が作るのは赤色、女性の方が作るのはピンク色と決められています。満月祝いの紅亀は、両家共作りますが、赤ちゃんの生まれた家では赤色で、外祖母からのはピンクに染めます。この時の紅亀は、赤ちゃんのお祝いですから母親の乳房を模った、やや平たい円形の上に小さな丸いのを乗せた形で、大きさも10cm前後程です。数は慶事の場合は複数ですから、おおむね縁起の好い、六、又はその倍数です。

赤ちゃんの衣類及び装飾品もそれぞれですが、出来れば頭のてっぺんから足の先までの四季の衣服一揃え。先ず帽子、帽子の前方には、赤ちゃんの成長と将来の幸せを祈った縁起の良い字が刻まれている、金細工の平たく丸い飾りを幾つか縫いつけます。お守りの意味で小さな観音像を縫い付けたのも有りました。それから女児は金のネックレス。男児の場合は、それに金庫を守る錠前と言う意味で錠前の形をしたペンダントをつけ足します。それと可愛い小さな金の指輪、腕飾りの金のチェーン、この一対のチエーンにも魚や貨幣をかたどった小さな飾りを下げます。それに赤ちゃん用のケープ、おんぶ用の紐。この紐ではこう言うことがありました。主人の妹の長男の満月祝いの時のこと、主人の母が丹念に用意したお祝いの品々に、このおんぶ紐だけ欠けていたのです。台南の旧家に育ち、台北の三高女で日本式の教育を受けた姑は、台南の慣例には長けていましたが、台北の例ではおんぶ紐が大切と言うことは知りませんでした。しかも、これは十六尺と長さが決められていて、紐の端を折って小さなポケットを作り、中に何がしかの祝儀をいれなければならないのです。十六尺というのは、一斤は十六匁だから、その数にかけて沢山の子宝ができるように、と言う願い。大切な縁起物が欠けていたと言うので、姑は付足しを求められ、いやな思いをしました。後で私がその要求通りに木綿十六尺でおんぶ紐を作って持参しましたが、その甲斐あってか義妹はその後目出度く男子四人女児一人をもうけて面目回復。しかし、殆ど年子の四人の男の子を相手に、若かりし頃の彼女が、子育てで結構苦労していたのも否めない事実でした。

子供は産まないか産んでもせいぜい二人止り、子沢山なんて考えただけでも恐ろしいと言う現代の若い人達にとっては、馬鹿馬鹿しくて歯牙にも掛けられないような本当の話でした。

外祖母さんからのプレゼントの装飾品の金は勿論皆純金。金尽くめのキンキラベビーは、新しいベビー服を着せられ、(大抵の赤ちゃんはこれを嫌ってむずかるのですが)内祖母さんに抱かれて、一ヶ月の休養で元気回復、晴れ着に着飾ったお母さんと共に各卓の来賓から凱旋将軍の様な祝福を受けます。飲んで食べて満足した来客が、お土産に紅亀を貰って帰り、満月の祝いの宴は終わったのですが、当日宴会に来れなかった親戚縁者にお祝いの油飯を届けることがまだ残っています。この油飯には、紅く染めた卵、胡麻油煮の鶏腿、などを添えて丼又は平鍋に入れて届けます。受取った方では中身を空けた器に生の米を盛り、丸い石を一つ米の上に乗せて返す慣例。丸い石には、可愛い赤ちゃんが順調に成長して、赤ちゃんの頭、つまり考え方が、この石のようにしっかりする様に、という祝福が込められていて、間違っても石頭になれと言う意味では有りません。もっとも、舗装道路ばかりの都市内では石も拾えないし、なんでも商業化した現在では、これも専門の店が箱に詰めて配ってくれますので、最近ではお返しすることも無く、情緒指数ゼロ。つまらない世の中になりました。

          五 「四月日」 

満月のお祝いの後が四ヶ月の誕生日、「四月日」です。この日にも外祖母さんから又お祝いが届く事になっているのですが、大抵は満月と一緒にするので別にパーティはありません。この日の行事は「収涎シュウヌァー」と「鳶追い」。

赤ちゃんも四ヶ月頃になると首がしっかりして頭がぐらぐらしなくなり、家の外へ出しても大丈夫なほどに成長しています。と同時に涎が出始めるのもこの頃。涎は見るからに不潔でいい気持ちがしないばかりか、酷い時には赤ちゃんの顎が真っ赤に爛れる事も有ります。それで涎を少なくするおまじないをします。パンのような丸い平たいお菓子、又はアーモンドの菓子を糸で通してお菓子のネックレスを作り、それを赤ちゃんの首から下げてご近所廻り。近所の小父さん、小母さん達に、そのお菓子を割って食べていただくのですが、その際にお菓子の端でそっと赤ちゃんのほっぺたを撫でてもらいます。これで涎が収まると言うのですが、美味しいお菓子で、赤ちゃんの可愛い頬を一寸撫でるのは楽しく、皆喜んでしてくれます。もっとも涎には利かない様で、私の子供等は却ってその後当りから涎が多くなっていたようでした。

「鳶追い」。昔の農村にはとんびが沢山居ました。青く澄んだ大空をとんびが悠々と飛んでいる、そののんびりとした平和な風景を私は大好きで、いつも懐かしく思い出すのですが、実はそんな悠長な事ではなく、鳶は大好物の鶏の雛が目的。農家の庭先に放し飼いにしている鶏の雛を空の上から狙って、見つけるとさっと電光石火の速さで降りてきて雛を攫って行きます。それを追うのが子供等の役目。空の端に鳶の影を見つけると、庭で遊んでいる子供等は口々に「とんびャァィ、とんびャァィ(バアヒョウ バアヒョウ)」と叫び声を上げて鳶を追い払います。これから大きくなったらこの赤ちゃんもその仲間に入れて貰わねばなりません。それで、外の風にも絶えられる様になった四ヶ月の誕生日に、腕白仲間の小さなお兄ちゃんにおんぶされて、形式的に「とんびャァィ とんびャァィ」と空に向かって声を上げてもらうのです。これは将来この赤ちゃんが近所の子供等のグループに入る為の、交流の始まりの儀式の様で、ほほえましい習慣です。その他におんぶされて橋を渡ることもあります。大きくなったら何処へでもいかねばなりませんから、外界に繋がっている橋を渡るのは子供の将来の発展を願う意味でしようか。この時に橋を渡っておくと、将来乗り物酔いしないそうです。

          六 「トーチェー」(「渡済)「做大人」

次は生後満一年の誕生日。「トーチェー」と言います。以前の歳は数え歳ですから、この日には年齢は二歳になっていますので、満一年の誕生日でも「一歳の誕生日」とは言いません。一歳の誕生日というのは、アメリカ文化の影響が強くなったごく最近からです。
この日も母方のお祖母さんから赤ちゃんにプレゼントが届けられます。満月と同じく赤ちゃんの四季の衣類。しかし満月のような金属の装飾品も多くなく、もう歩けるようになる孫の為に、靴、ズボン、小さなオーバーコート、などが入れられます。世間に向けての大きな宴会もあまりなく、内輪だけのお祝いで済ませることが多いようです。

子供の誕生日にする行事は満一年の誕生日まで。古都台南では十六歳の誕生日になると、「做大人」と言って、読んで字の如く、大人になった祝い。日本の昔の元服や現在の成人式のようなのがあり、これも外祖母さんからしてもらうのですが、現在では殆ど行われていません。

嫁のお産の世話もですが、娘に子が生まれると里の親もご苦労様です。しかしこれらのプレゼントは、娘の産んだ長男と長女にだけ沢山揃えるので、次男次女以降は簡略されます。さもなくば、一斤十六匁の数を目標にせっせと産み励む娘を持った親は、たまったものでは有りません。破産してしまいます。

          七 親の誕生日

 幼少期の、親が祝ってくれる誕生日は別として、台湾で大々的に誕生日が云々されるのは、大体六十歳当りからです。六十代になると生活も安定し、家族も増えて貫禄もつきます。「五十知天命」とある如く五十歳を過ぎると天命を全うしたとされるほどですから六十歳の誕生日は大変目出度いと祝福され、この時は息子がパーティを開いて親の還暦祝いをします。以後からは毎年の誕生日にお祝いをしますが、十年毎の誕生日、古稀、傘寿、卆壽の祝いは特に大切で、大誕生日といって、大きく催されます。
親の誕生祝には息子だけでなく、嫁いだ娘からもお祝い品が届けられます。内容は各家庭の状況次第ですが、豚の足と紅亀、卵、そうめん等は縁起物で必要です。豚の足は「豚足を食べると足が強くなる」と言う言い伝えで親の健康を祈り、そうめんも、その長い事から長寿を意味して、紅亀は慶事にはつき物。親戚や、友人からのお祝いのお返し等に使います。息子と娘の作ったのは色が違いますから、貰った先では誰からのか解り、ゴシップ好きな暇人に、一族の円満を知らせることにもなる訳。

豚の足は、ぶつ切りにして骨ごと煮ると美味しいのですが、昔は栄養補給にもなったのでしよう。農村の子守唄にも「この娘が大きくなって豚足を買ってくれるのが楽しみ」(註②)と言った意味の歌詞が有り、親に豚肉を買って来る事は孝行になっていました。その煮汁で合えたそうめんも良い味です。私は以前、年長の親戚から、紅亀は親の歳の数に二つ足した数を作るべき、豚足は足だけでなく、豚の半匹そっくりとか、丸ごと一本の豚の腿、少なくとも豚の足に幾らか豚肉をつけること、と教えられましたが、今時、歳よりも二つ多い七,八十個の紅亀を持ちこまれては迷惑だし、豚肉もそんなに多くは食べきれないので、晩年の父母の誕生日には実用的に簡略させてもらい、現在は私の子供達にもそうさせています。

親の誕生日当日には家族全員が早起きして、砂糖で味付けした「甘い汁そうめん」を食べます。その長い形から長寿を意味しているそうめんは、親の長寿を祈る意味ですから、その時の、最初の一口のそうめんだけは噛み切ってはなりません。汁の中のそうめんを、少しだけ掬って、するすると手早く口の中に吸い込んでしまうのが要領。昔々、あるバカ息子が欲張って沢山取りすぎた為、そうめんが絡み合って長く伸び続き、切ってはいけないので立ち上がって食べようとしたがまだ高さが足りなくて、机の上に上がってもまだ駄目、はしごを持って来てやっとそうめんを食べることが出来たと言う笑い話があります。それほどでなくとも、要領が悪くて取りすぎ、大きなそうめんの塊を、目を白黒させながら飲みこんでいるのを、側からからかったり囃したりするのも誕生日ならではの光景です。  (素麺を食べやすくする為に、茹でる前に、人知れず台所で半分にちぎっておく。と、こっそり教えてくれた目上の方が居ました。)
茹でて赤く染めたゆで卵は、殻を剥く動作から、今までの厭なことを剥き捨てて、新しい幸せが来るようにと言う意味があって、家族が心を込めて一つづつ卵の殻を剥きます。

私の生家では、一般の台湾の習慣通り甘い素麺を食べた後、豚足の醤油煮、煮汁で合えたそうめん、紅卵を食べますが、主人の方の台南ではその日の昼食に「魯麺」というのを頂きます。

この麺は誕生日だけでなく、慶事の際に作られる汁麺です。材料は、台湾の昔ながらの黄色い麺に、蝦、韮、もやし、椎茸、豚肉の赤み、卵、エンスイ、にんにく少々、豚の大骨を長時間煮て作ったスープ等。 麺は茹でて笊に空けておき、蝦は茹でて皮を剥いておきます。韮は二センチほどの長さに切って、葉の緑が鮮やかに残るようにさっと湯通しします。もやしもさっと湯通し。豚肉、椎茸も茹でて千切り。エンスイは丁寧に洗って細かく刻んでおきます。卵は薄く焼いて細い千切り。材料が整ったら、熱した大鍋に油を引き、刻んだにんにくを炒めて鍋に香りをつけ、豚の骨からとったスープを一度に入れて塩、醤油、胡椒、酒各少少で適当に味付けしたら片栗粉でとろみをつけて麺汁の出来あがり。大ぶりの茶碗か丼に一人分の麺を入れ、豚肉、椎茸、韮、もやし、をいれて上から沸騰したスープをかけ、箸で適当に混ぜたら、蝦の剥き身、卵の千切りで色よく盛り付けし、最期にエンスイをまぶし入れて食卓に出します。食べる時、紅酢を少少たらすと香り高く、食欲を誘います。豚足の様に脂っこくも無く、美味しくもあるので、一膳では足らずにおかわりをする事が多いのですが、スープを熱く保ち、材料さえ揃えておけば簡単に早く幾つでも出せるので、台所の忙しい日には便利。次々と入ってくる祝賀の客にもすぐ出せました。何でもレストランで片付けてしまう現在と違って、昔の台所は何につけても忙しかったものでした。「魯麺」はその時の厨で働く女性の為に考えられた生活の知恵なのでしよう。


          八 三年続く傘寿

 誕生日当日の本人はゆったりと、ただ皆の祝福を受ければ良いわけですが、私の所では、里の父が自分の誕生日には必ず亡くなった親に向かって、健康な自分を産んでくれた感謝をささげていましたので、それに倣って、主人も誕生日の朝には必ず祖先を拝みます。それと使用人達へはお祝儀、孫達にはお小遣いを分けるのも我が家の習慣。孫達も心得ていて、貰わぬ先から用途を決めているとか。
二〇〇二年十二月三十一日の、主人の、慣例による八十歳の誕生日には、子供等と八人の孫全員がアメリカから帰ってきましたが、そうめんを食べる事でふざけ、お小遣いを貰うので騒いで、大変賑やかな誕生日の朝でした。以前も主人の誕生日には家族が集りましたが、今度は全員だったのです。クリスマスに続く新年をかねての休みに、アメリカから総勢十五人も、どっとこの家に入りこんできた、その騒ぎ、お察し下さい。一ヶ月も前から夜具を干したり買い足したり、部屋の整理。当日になるとベッドが足りなくて板の間で雑魚寝。八人の孫の胃袋は底がなくて、台湾の果物は美味しいと、丁度時期の蓮霧、ポンカンその他、果物屋が相好を崩す程消化しました。主人の誕生日当日までの時間つぶしにと、バスをチャーターして南部旅行に連れ出しましたが、孫どうしも普段余り会っていないわりにはパソコンでの付き合いがあるらしく、すぐ嬉しそうに打ち解けていました。それに加えて時差もあり、毎夜寝もせずに、台湾のものはなんでも珍しく、美味しい美味しいと食べて、ふざけて、笑い転げて------。もっと居たら、彼等に付き合っているこっちは体がダウンそうでした。

「孫は来た日と帰る日が嬉しい」と言いますが、でも最後の一人が去ってしまうと寂しいものですね。家の中が突然がらんとして寒いこと!「地球の温暖化なんて誰が言ったの!」と、主人と当時の写真を見ながら、あの騒がしかった日々を懐かしがって居るのだから、「ばあさんバカ」といわれても仕方有りません。

主人はこれに懲りずに、「自分は満年齢ではまだ七十八歳、数え年では七十九歳だが今年は習慣で八十歳と言い、来年は数えで八十歳、翌翌年は満で八十歳、と八十歳が三年続くから、三年続いて傘壽を祝える」といっていました。古今東西の例を一つに集めた数え方で、いい気なものでしたが、お陰さまでそれも無事にすごすことができました。

アメリカの科学雑誌によると、科学の進歩、殊に細胞生物学の研究で、人間の平均寿命が百歳、或いはそれ以上と延びるのも夢ではない、ということです。又アメリカの別の雑誌の発表に拠れば、旧約聖書に記載されている三百六十五歳から、九百六十九歳までの数人の人物の年齢が真実であると証明される日も来る事であろう。とされています。註④。この論法でいくと、中国の古い伝説にある、鼻祖が二千年生きたという話も、あながち中国式大法螺ではなくなりそうで、台湾式に十年毎に行われる誕生祝も、百歳、二百歳と高高齢の誕生日になる日もなきにしも有らず。
そうなれば、現代の高齢者の私達も、負けずに、九百六十九歳も生きた人々をお手本に、これからもしっかりがんばって行かねばならないという事なのでしよう。

                                       西暦二千五年三月三十日    劉 心心



註①「生得過麻油香 生没過睏杉板」(台湾語読み)   
   無事に子供が生まれたら胡麻油の鶏肉料理の良い香りを楽しめるが、失敗したら冷たい杉板の上に寝るはめになる。という諺。 
   台湾では、家庭内で息を引き取った場合、遺体はすぐに正面入り口の正廳に移され、納棺までの間、杉板で作られた臨時の寝台に移されていました。
註②改姓名
戦前、台湾では台湾人の姓を日本式の姓に変える事が奨励されていましたが、祖先伝来の台湾姓を日本姓に変えるの嫌がった人が多かったのです

註③「揺呀揺 猪脚双辺抉」
   女の赤ちゃんへの子守唄。母親が揺り籠を揺り動かして寝かせながら歌う歌。この子は女の子だけど、大きくなったら親孝行して、親の誕生日には大きな豚肉を買ってきてくれる。と言う意味。男尊女卑の頃、女児を産んだ母親の気持ちが込められているような気がします。

註④ アメリカの雑誌発表された科学論文の中で、旧約聖書にある、ノァの箱船以前に生存していたと言う長寿者の名前。Enoch 365歳、Methuselah九百六十九歳。(残念ながら私はその名前を読めません。クリスチャンの方ならお分かりでしょう、ご教示お待ちしています) 

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