故鄉

Tuesday, April 15, 2008

白色テロ

「白色テロ」と台湾で言われている、蒋介石の軍隊による台湾人大量虐殺事件は、近年になつてやっと一部の人々の口に上るようになりましたが、終戦後半世紀余まで、台湾では、誰一人それを言う勇気は有りませんでした。

終戦の、1945年8月、連合国による委託管理として台湾駐留を任された蒋介石の軍隊を、台湾人は、「日本が戦敗して、祖国の軍隊が戻って来た。これからは自分達も、もう植民地の人間ではなくて、一国の国民になるのだ」、と喜び、心からの誠意を持って歓迎しました。所が、上陸した軍隊に最敬礼をして頭を上げた目の前にあったのは、ずれそうに巻いたゲートル、太腿の上までの、よれよれの短いズボン、銃を肩に担いでいるのや、天秤棒で鍋釜、野菜などを担いで歩いているのやら。今まで見てきていた日本の軍隊とは、天地の差の隊伍でした。蒋介石の軍隊は、疲弊し切っていた上に、員数を合わせるために臨時に集めたのや、道端で歩いていたのを拉致してきた者もはいっていたのでした。

駐屯した彼等の噂がすぐに全島に広まりました。夜になって電燈が着くのが珍しく、自分等も電球を買って来て、天井からぶら下げたが、夜になっても点かない。水道の蛇口を買って来て、自分等も柱にくくりつけたが、水が出てこない。此れは一体如何したことかと怒り、威張る彼等は、電気も水道も見た事が無かった連中だったのです。そればかりでなく、餓鬼のようになっている彼等の、それが当たり前のように、至る所での略奪、婦女暴行等の、目に余る暴行事件が次々に起こり、驚いた台湾人民が、それに反感をもつのに時間はかかりませんでした。

中国の歴史を見ると、占領した都市を先ず兵士に略奪させて功をねぎらった。と言うような事が良く出ていますから、蒋介石もそれに習ったのでしょうか。それとも、中国内部で日本軍と戦い破れ、共産党にも戦敗した憂さ晴らしに、当時すっかり日本的になっており、言葉も日本語が常用されていた台湾人を、日本人と同類と見なしての暴行だったのでしょうか。

大きな失望に陥った台湾人と、中国軍との確執が遂に、爆発したのが、1947年2月28日に発生した、有名な2、28事件だったのです。

中国兵の、あまりにも理不尽な行為に怒った台湾人の反発は、瞬く間に全島に広がり、始めは台湾人側が優勢かと見えましたが、蒋介石側から直ちに送り込まれてきた、敗残軍隊ながらも武器を持っていた援軍と、身に寸鉄も持たず、戦闘経験の無い民衆との戦いは、日を経ずして台湾人の惨敗。それからは前にも増しての蒋介石軍による虐奪、無差別殺戮。平和的な交渉をと、出て行った医師や芸術家の民間代表まで、民衆への見せしめの為に、街の広場に引き出して蹂躙の上、残虐極まりない手口で殺す。など彼等は筆舌に尽くせない非人道的な鎮圧をしたのです。

殺されるものは殺され、逃げるものも逃げて、2.28事件は何万人もの犠牲者を出して間もなく静まりました。

しかし、事はそれでは済まず、蒋介石が次に取ったのは、台湾のリーダー級の人物を抹殺する事だったのです。それは、「台湾に潜入している共産党員を撲滅する」と言う名目で行われましたが、その大規模、且つ無差別な拉致、監禁、拷問、銃殺等の範囲の大きさは、2.28事件を優に越え、前述したように、あの頃の台湾で、自身で経験しなくとも、親戚、友人など、身近に犠牲者が無かった人は居なかったでしょう。と言うのも、共産党員を撲滅すると言う名の下に、中国大陸から蒋介石に付いてきた者達は、一寸でも己の気に触る人間には、すべて共産党と言う言いがかりをつけては密告して居たので、どれ程無辜の人が犠牲になったのか、計り知れません。

戦前の、日本統治下の台湾では、制度上でか、台湾人が官吏になって昇進することは極端に難しかったので、政治の勉強をしている人は殆どなく、ましてや一般民衆に共産主義とは何かなど、知る由も有りませんでした。それに、長い戦争の後で、知識欲に燃えていた、其の頃の台湾青年は、共産党の宣伝もはいっているとは知らずに、彼等の誘う「読書会」に参加したのです。この「読書会」に一寸でも顔を出したとか、其の中に友人が居たと言うものは、かならず標的にされ、捕らわれていました。叉、鉄道関係の人達も多かったようです。今思うのに、あの頃の中国では鉄道が唯一の文明交通機関であったので、彼等は鉄道を守るのに神経を使っていたのかもしれません。捕えられた人達、「政治犯」は、思想犯といわれ、思想犯として捕えられたものが帰ってくる事は皆無に近く、日毎に多くなる見せしめの公開銃殺、公開虐殺。(ちなみに、ずっと時代が下がった後、ある外国記者に対して蒋は、台湾には政治犯は居ない。と平気で嘘をついたそうです)

一般民衆をも巻添えにした、この恐怖政治「白色テロ」。是は確かに効果覿面で、それ以来、台湾全島の民衆は恐れのあまり、2.2.8事件も、白色テロの事も口を閉じて誰も、何も話さなくなりました。中には自己防衛の手段としてか、すぐさま国民党の勧誘に応じて党員になり、彼等の言いなりに、同胞を摘発するスパイ活動に従事する者もあり、ずっと時間が立って、1990年代になつても、心ある者がこっそりと犠牲者の家族に当時の事実を聞きに行くと、「やっと、あの事を忘れて、平和に暮らしているのだから、再び邪魔をしないでくれ」と、インタビューを断る人もありました。人間とは弱いものなのです。

私の父も、その台湾のリーダー級の人物を抹殺する白色テロの大きな犠牲者の中の一人でした。当時の父は、炭鉱と金鉱を経営し、紡績などにも手を広げていて、成功している事業家でありました。社会事業にも熱心で、殊に、当時台湾には唯一つの大学しかなかった事を思い、終戦当時日本から、国の為にとすべてを捨てて帰国したのに、職場を得ることの無かった優秀な人材を教師とした延平大学を、独自の資本で設立、又、芸術家を励まして援助もしていたので、社会的に尊敬されていました。それが彼等中国人の目に触ったのでしょう。

父が捕えられた為に、父本人ばかりではなく、家族もどんなに辛い目にあって来たことか。でも、私も、口を閉ざして、この真実を自分の子女には話しませんでした。私は自分の子供等が、人として持つべき正義感を持っている事を知っていましたから、万一子供等が台湾人の受けた陵辱、祖父の受けた残酷な仕打ちを知って、憤慨のあまり何かを仕出かしたら、と言うことを極端に恐れていたのでした。蒋政府のスパイのうようよしている台湾内では、唯でさえ、何もしなくても、私達、所謂「思想犯」の家族は厳重な監視の下に置かれていたのでした。一寸でも、中国からの難民である あの輩の気に触るような言動があったら、その日から、その人は姿を消されてしまいます。息子達をアメリカ留学の名目で出国させ、生活が安定したとき、私は始めてアメリカに行って、台湾に起こった政治的な事実を話しました。案の定、息子は「どうして自分が国内に居た時に話してくれなかった。もう今では手が届かない」と悔しがりましたが、始めから言って居たら、留学どころか命まで無くなっていた事でしよう。

父は、家族の懸命な奔走で辛うじて命だけは助かり、強いられての判決は、十年の実刑、市民権剥奪15年、全財産没収でした。彼等の目的は、指導者的存在だった父を抹殺する事と、父の財産だったのです。

あの頃、有る有名な新聞記者が、事実をローター通信社?かに発信したのですが、たちまち見破られて、記事を抹殺させられたばかりではなく、酷い目にあわせられたと聞いております。

蒋介石軍は、台湾に上陸した、1947年からの暴挙を其の儘続け、1949年7月15日には正式に全島に「戒厳令」を布告しました。それによって、台湾の民衆が政府の許可なしに海外に出ることも厳禁され、新聞雑誌はおろか、通信も監視されていました。ある日本の方が、「旧友達が何かを隠している感じだった」と言っていたそうですが、あの頃の、私達台湾人は、訴えるにも道が無く、じっと耐え忍ぶより他に無かったのでした。其の方のお友達も、きっと、言いたくてもいえない苦しみに耐えていらっしゃったのでしょう。

「誠実」「公益を重んずる」等の、現代社会のルールを身につけて居り、しかも武器を持たなかった当時の台湾人を、武器を持っている彼等が、脅し、騙すのは、赤子の手をねじるようなものだったのです。

こうして、白色テロは、政府によって事実を強制的に隠蔽され、誰も口にする勇気の無いままに、世界の人達ばかりか、現在台湾に住んでいる若い世代の人達にも半世紀近くも知らされる事がありませんでした。

蒋介石による戒厳令は、1987年7月15日に、その息子蒋経国によって、解除されましたが、それは多くの恐れを知らぬ人達の努力と、多くの犠牲者のおかげであり、又、世界的な趨勢が彼をして解除に持って行かせたのでしょう。しかし、狡猾な蒋の党羽、国民党は、解除と同日にそれと同意義異名の条例を発布するなど、直ぐには台湾人民を放さず、古い、人聞きの悪い条例を廃止するといっては、次々と新しい名称の法律を作って、世間を騙し続け、それは近年にまで続きました。

それでも、勇敢な台湾人によって、白色テロは徐々に明るみに出されて、台湾人による台湾の自由民主は、今では大きな進歩をとげています。それにもかかわらず、その時代を経験した私達の心の奥深くに、当時の恐怖は今でも残っており、まだすっきりと消え去ってはいません。

白色テロは、それほどまでに、深い傷を台湾人に負わせているのです。

心心 2007年7月3日

看守所 監獄

何万とも知れない無辜の人達を、己の暴政の犠牲にした、蒋介石率いる秘密結社の暴挙、白色テロ。その犠牲者達が、最初に引き捕えられて行った先は、台北市内の各所に設けられた、秘密の尋問所でした。其の名は看守所と言われて、まるで、一般のコソ泥やチンピラが一時留置されている所のような軽い名称でしたが、この看守所という名は、あの頃では、泣く子も黙る、怖ろしい名前でした。一旦看守所に入れられたら、先ず、大部分の人達が、生きて出られると言う望みを諦めねばならなかったし、命からがら出てきたとしても、無傷。と言うのは絶無だったでしょう。

父も其の中の一人で、十年の実刑を終えて、ようやく自宅に戻れましたが、獄中の事は思い出すのが辛いのか、話したがりませんでした。しかし父は、92歳で亡くなるまで、毎夜のようにうなされて、苦しそうな悲鳴を上げていたのです。

白色テロの生き残りの方々の証言などによれば、蒋介石の手下の獄吏達は、(調査員と言っていました)捕まえた犠牲者(あの時代には思想犯とされていました。)の罪が重ければ重いほど、もらえる賞金が多くなる制度で、為に、拷問で無実の罪をどんどん積み重ねてその犠牲者の罪状を増やし、最終的には死刑に持っていくのが、彼等の目的だったのです。それに、彼等の逮捕機関は、一つだけではなく、二つか三つの秘密機関が同時に動いていましたから、極短時間に、あんなに多くの犠牲者を作り出していたのでした。

捕えられた人達の中には、彼等の目的の、潜伏共産党員も若干居ましたが、無実の人達が多く、彼等は其の人達にも罪を認めさせるために、あらゆる手立てを使いました。身に覚えの無い事をでっち上げて承認させようと言うのですから、誰でも始めは否定します。それを酷い拷問で承認させるのです。ある生き残りの方の書いたのに、「手足の親指の爪を剥がれるのは拷問の初手で、それはとっくにされていた」とありますが、爪と肉の間に針を差し入れる。爪を剥ぐ。と言う事は、拷問の中の初期の仕打ちだったとのことです。阿鼻叫喚の生き地獄とは、こう言う事を言うのでしょう。其の方(郭振純さん)の経験談では、「手足を縛られて袋に入れられ、水辺に連れて行かれた。彼の前に、苦し紛れに彼の名を言ってしまった友人が、矢張り袋詰めにされて居り、その人が先に水に落とされる音がした。そこでも、もう一度尋問を受けたが、郭さんは頑として応じなかったので、彼も水中に投げられ、深く沈められた。が、袋の口が引っ張られている感じがしたので、きっと引き上げられると信じて、じっと息を止めて最後まで我慢した」とあります。それでも言われた事を承認しなかったので、次には「全身を真っ裸にされた上、手足をがんじがらめに縛られて、叢の中に放り投げられ、砂糖水を上から全身に掛けられたので、直ぐにやって来た無数の蟻が体中を這い回って噛み、痒さと蟻酸で痙攣を起こして、気絶寸前だった。」と有ります。でも彼は、「学校で日本人の教師から、男子はどんなに苦しくても悲鳴を上げるものではない」と教えられていたので、歯を食いしばって、最後まで一声も出さなかった。と言っています。その惨状にさすがの調査員も見かね、自分の口に指を差し入れて誰の声かはっきりしないようにして、彼の代わりに偽りの悲鳴を上げたので、付近から人が出てきてすぐ塩水をかけて蟻を退け、彼は其の時に始めて気が遠くなったそうです。こんな酷い拷問を、調査員の主任は、その拷問を題して「蟻儀上樹(春雨とそぼろ肉をいため合わせた四川料理の名)」と言い、始める前に「お前、蟻儀上樹と言う料理を知っているか、それをご馳走してやろう」と言ったとのこと。彼の罪はといえば、国民党が、倒したがっている人物の、でっち上げの罪状をこしらえ、其の要人の近くにいた郭さんに証人のハンコを押させようとしたのに、彼が頑として承認しなかった。と言う事。それで彼は命こそ助かったが、代わりに、22年2ヶ月と言う、長い監獄生活を強いられました。

より多くの思想犯を捕らえる為には、捕えられてきた人から、その人の友人の名前を聞きだすのが一番手っ取り早い方法でしたから、彼等はそれを拷問で聞き出していました。日本政府の残した綿密、且つ正確な戸籍簿で、彼等は名前さえわかれば直ぐにでもその者を捉えることが出来たのです。戸籍は、山奥や辺鄙な寒村にまで及んでいましたので、嫌疑を掛けられた者は逃げ場が無く、自宅の穴倉に何十年も隠れて遂に病死したと言う記録も有り、生後間もない赤ちゃんを道連れには出来ずに、人目に付く場所において逃げた若夫婦の話も聞いたことがあります。

この様に、彼等の拷問のすさまじさは、多くの生き残りの方々の著書などで、私が申すまでも有りませんが、父の場合は、袋に詰められて上からぶら下げ、外から滅多叩きに叩かれて、足は氷の上に何時間も立たせたそうです。それも毎日で、歩けなくなった父が、壁伝いに歩き難そうに行くのを、同じ嶽舎に居た運転手が垣間見ていました。運転手の獄房からは、父の獄房の前が少し見えたので、父の靴が未だ置いてあるか否かで、父の存命の有無を伺っていたそうです。有る時、父はあまりの拷問に気絶し、中々覚めなかったので死んだと思われ、庭の軒下に放り出されました。翌朝のごみ収集のトラックに捨てさせる積りだったようです。それが、夜露に当たった為か、翌早朝、前日の便桶を捨てに行く当番の人が(この人達も思想犯でした)見つけて、生きているらしいと、尿を傍に掛けてみたので息を吹き返し、獄舎に戻されたと言います。こんな目に会ったのも、父が最後まで一人も友達の名を承認しなかったからだと、私は、帰って来た犠牲者の方達から聞かされました。

尋問期間中の獄房もひどいもので、日本時代に留置所として使っていた二人分の部屋になんと四十人詰め込まれ、横になる場も有りませんでした。あまりの人数に留置所では足りなくなって、急遽拵えられた場所は、樹皮も削られていない、裸の丸太をそのまま並べた床で、横になると痛かったし、冬は丸太の下から吹き上げる冷たい空気が肌を痛いほどに刺すのです。勿論其処も超満員。夜は交代で横になり、用足しに起きた者が自分の場所に戻る時には、他人の体を踏んでしまいます。夏には汗、涙、血、にまみれた部屋に、虱、蚤が発生したのは当然の事。健康を害し、下痢するものが多かった獄室に置かれていた便桶は四個。大小便各二個で、その臭気の強さは言うまでも無いことでしょう。全員で交代に便桶の傍の位置に寝るのですが、若い人達に尊敬されていて其処には割り当てられなかった父は、しかし、絶対に皆と同じく、その一番辛い場所にも寝たといいます。臭い便器は、翌早朝、当番が担いで外に捨てに行くのですが、その役目を皆欲しがっていたと聞いて驚きました。実は、便桶を担いで外へ出ると新鮮な空気が吸えるし、タオルで体を拭く事が出来たからだとのこと。重大犯達は、一週間毎に部屋換えをさせられます。どの部屋にも偽の思想犯がスパイとして入り込んでいて、室内の話を密告し、看視していました。叉、ある人を尋問のように見せかけて、調査員の部屋に呼び、タバコをその場ですわせました。何事もなく帰って来て、しかも体中タバコの匂いをぷんぷんさせていたその人は、同室者の羨望と強い疑惑を招いたそうです。扇動して、仲間われをさせる、実に巧妙な手口だと、帰って来た父の運転手が言っていました。運転手は叉、父が連れ去られた時に同時に私達から略奪したあのフォード車が、其処で、拉致に出かける彼等の交通器具として使われていたのを、車のラッバの音で聞き分けていました。彼が毎日丁寧に拭い、整備をしていた車ですから、ラッパの音だけであの車だと解かるのでしよう。

拷問の次に来るのは判決。裁判などの無い、一方的な判決言い渡しです。ある政治犯帰りの方に、その方の収監期間を聞きましたら、自分は三年の懲役、「一番安いのだったよ。」と物価の事を言うような口ぶりでの、さらりとした返事が返ってきました。あの時の世情を反映し皮肉った、意味深長な答えです。其の方は、ただ、友達が本を預けて行った。というだけでの事でした。二十年、三十年の実刑と言うのはざらに有り、彼の、三年の実刑と言う判決は僥倖といえたのでした。四十年の刑を終えて出嶽した人の、四十年間をずっと待っていた婚約者との結婚に、父が招ばれたことがあります。二人とも還暦近くになっていたが、とても嬉しそうだった。と父が言っていました。新郎は、結婚直前に捉えられたのでした。こんなのは、幸運な方で、数十年の刑を終えて出てきた人が、我が家に飛び込んで真っ先に父母の名を呼んだが、待っていたのは物言わぬお位牌だったという例も少なくありません。親が、心配のあまりに早逝してしまったのを、獄中の人を悲しませぬようにと、周囲の人達が隠していたのでした。

法廷は 世論を騙す飾り物 生くるも 死ぬも好き勝手にて  江槐邨作
                              台湾歌壇第五集より

四十年でも、五十年でも、命さえあれば帰れます。しかし、あの頃、日常茶飯事のように耳にさせられていた「死刑」。銃殺されて永久に帰らぬ人の如何に多かったことか。最近発見された報告によると、重大事件と称される件は蒋介石が直々目を通したが、蒋は重刑に満足せずに、多くの判決文を「死刑」と書き直させて居たと言う事です。しかも、死刑判決された人は、銃殺直前と直後の写真を必ず蒋に見せるように命ぜられていました。勿論その多くの写真の中には女性も居て、最近行われた白色テロ展覧会の中の、ある女性犠牲者(丁窕窕さん)の写真は、出産後一ヶ月足らずで捕らえられた為、その赤ん坊も一緒に監獄内に長い事居たのが、突然引き出されて銃殺されたので、最後に一目、幼な子とも別れをする事もならずに引き離されて刑場に引き立てられた、やつれ果てた銃殺前後の写真でした。それは、見るも辛く、胸のうずく思いのものでした。捉えられる前の彼女は、ぽっちゃりとした可愛いお嬢さんだったそうで、恋人もあり、勿論、共産党員でも無かったのでした。その恋人も同じ監獄に入れられていたので、ふとした事からそれを知った彼女は、監視の目を盗んで、自分の爪と毛髪を秘密の場所に隠し、自分の亡き後は故郷の木の根元に埋めるようにとの添え書きをしておりました。彼女の其の望みは、恋人が長い獄中生活を終えた後、やっと叶えられたとのことです。

君散りて 半世紀経ぬ 誓い言 未だ成らずに 詫びし老いぼれ 郭振純作
短歌勉強会2005年作品集「龍」より

「生きたい」と 一人呟く二条一項の 獄友(とも)に慰めの 言葉浮かばず 江槐邨作
台湾歌壇第5集より

二条一項とは「死刑」の判決条例です。絶対に助からない銃殺の日を待つ同室の難友に、懲役三年の判決を持つ彼は、生きたいと呟く友に言うべき言葉を捜しえませんでした。

父は私達家族には話しませんでしたが、父の獄室にもこういった難友が居て、父は銃殺と決まったその方々に「台湾青年の血は、汚れた服の上に流してはならない。いよいよという時には、これを着ていくように」と自分の新しい白シャツを渡していた。と後日、其の方の奥様が皆さんに話されていました。台湾の若者を愛し、いつくしんでいた父が、自身の明日の命をも知れない監獄内で、死に行く青年にそれを渡す時。其の言葉には、どんな思いがこめられていたのでしょうか。父はよく「入る前は鉄だが、出る時は剛(ハガネ)になって出る」と私達に言っていました。

2007年8月9日  心心