五日節 (日本の友人への手紙より)
五日節 (日本の友人への手紙より)
六月十五日は旧暦の五月五日、端午の節句の日でした。端午の節句は中国語では「端午節」といいますが、五日の日の節日ですから台湾では「五日節」と言います。ちなみに、端午という言葉は月の第五日、五日の古語でしたが、唐の玄宗の「端午仲夏」と言う詩から、宋、元と伝わるにつれて何時の間に五月五日だけが端午と言われるようになったと言う事です
その五日節の事を少しお話ししましょう。
五日節は台湾では、新年、中秋節と共に一年の三大節で国定休日。お役所も大きな会社などもお休みです。
この日はどの家庭でも粽を食べるのが慣例で、別名「肉粽節」とも言われています。
もともと五月は、台湾の暦の上では毒月と言って、毒気の多い良くない月ということでした。ですから民間では、門口に菖蒲、榕樹、艾草の葉を束ねて挿し、「雄黄」という漢方薬の入った酒を飲んだり、或いは雄黄を入れた水で体を洗うなどし、子供達には虫除けの香料を入れた布の小袋を付けさせました。雄黄は駆毒作用が有り、形が剣に似ている菖蒲の葉、健康長寿を意味する榕樹の葉、毒消しの薬草艾草の葉等は、皆「毒月」の毒よけのお呪いです。治水の悪かった昔は、五月には洪水が起こりやすく「五日水」と怖れられていました。夏の洪水の後には疫病も蔓延しやいので、これらは、此れからの暑さに備えての健康を守る、昔の人の生活の知恵だったのでしよう。又、この日には卵を食べると綺麗になるとも言われるのも、夏ばて防ぎの栄養補給を意味しているのでしようし、莢付きの豆(菜豆)、と茄子を食べる習慣も、この野菜の名の発音に懸けて長寿を願い、元気良く溌剌とする様に、と言う願いからです。
五日節に欠かせないのは粽。その粽にはこんな由来があります。
昔、中国の戦国時代、楚の国に、屈原と言う高官がいました。「大夫」と言って、国政に進言出来る地位です。人格者で学問もあり、常に国王に民の為になる政策を勧め、始めは信任が厚かったのですが、後に、奸臣の讒言を信じた無能の国王に容れられず、失望のあまり、とうとう汨羅江と言う河に身を投げてしまいました。一般の民衆に大変尊敬されていた人ですから、人々は嘆き哀しみ、深い川底に沈んだまま上がってこない屈原の亡骸が魚に食われ無い様に、魚達を満腹させておこうと、ご飯を竹の皮で包んだり、竹筒に詰めたりして沢山河に投げ込みました。それから毎年のこの日に粽を作って屈原の供養をしたのが、毎年のこの日に粽を食べる習慣になったのです。
そんな悲しい歴史で始まった粽、でも、今では五日節に粽を食べるのは、楽しい年中行事の一つになりました。子供に下げさせた小袋も、最初は魔除けだったので、強く勇ましい虎の形が多く「虎仔香」と言われていましたが、だんだん精緻な手芸品になり、今では色取り取りの布で、粽や兔、人形などを形どった、時節向きの可愛いアクセサリーです。粽も、以前はどの家庭でもその数日前には粽作りに忙しく、各家庭の味を競いあったものでしたが、現在では市販で済ませるのが多く、此の頃になると市場に、伝統の肉粽(バァツァン)、粳粽(キーツァン、中国語では鹸粽と言う)、の他に、小豆餡のや、菜食者向きの粽、月桃の葉で包んだピーナッツ粽、戦後移住して来た中国各地方の人達の、それぞれの郷里の味や形の粽、と多種多様なのが出まわっています。
我が家でも実家の母が存命の頃は、毎年母の指導で作っていました。母の粽は、伝統の肉粽(バァツァン)、家族自慢の粽で、母亡き後の今では、その味に匹敵できる粽に「絶対」出会うことが出来ないと言うのが、我が家族達の合言葉です。たまさか美味しいのに出会っても、それは「少しおばあちゃんのに似ている」と言うのが、その粽に対する最上の誉め言葉です。
我が家の肉粽の作り方を記しておきましょう。
肉粽は少しだけ作るものではないのですが、我が家は大の粽好き、殊に他人の粽は絶対に不味いと決めてかかって食べたがらないので、弟妹達や、何日続けて食べても飽きない子供達、子供達の友達へのお裾け用、等の為に、多い時には二百個前後も作っていました。五日節にはご先祖様にも粽を供えますが、この日のお供えは正午を越えてはならないしきたりで、粽は前日に作っておかねばならず、従って下拵えはその又前日に済ませておきます。
肉粽の材料は、①乾燥した孟宗竹の葉(粽を包むのに使う) ②粽を結ぶ乾燥した藺草の束(繊維が強いので、昔は野菜や肉などを結ぶのに使われていた。粽を結ぶのに最適) ③糯米(粒の長い形の品種)④豚の三枚肉と脂身 ⑤生の塩卵 ⑥椎茸 ⑦生のピーナッツ ⑧里芋(ねばねばした小さい衣かつぎではなく、大きくて、さくさくした品種) ⑨乾燥した葱の球根 ⑩醤油、塩、酒(米酒)、砂糖各少量。
先ず、乾燥した孟宗竹の葉の束をほぐして暫く水に漬け、柔らかくなったら、新しいたわしで、注意深く、きれいに洗います。竹の葉は薄くて破れやすいし、時には蜘蛛の巣などがついているのです。腰がしっかりして丈夫な孟宗竹の皮(味噌を包んでいる竹の皮)を使う家庭もあり、その方が作りやすいのですが、粽らしい情緒がなくて母は使いませんでした。又月桃の葉も丈夫ですが、あの香りを嫌って、家のは必ずオリジナルな孟宗竹の葉と決まっていました。紐の束も水につけておきます。椎茸は水で戻し、蔕を取って5ミリ程の線切り。漬け水は捨てません。(その他に干し蝦や栗、干貝柱、干し牡蠣などを具に入れる人がありますが、母は嫌いました)糯米は洗ってざっと水を切り、ピーナッツは暫く水につけておきます。里芋は皮をむいて四五個の立て割りにし、蒸して置きます。乾燥した葱の球根はみじん切り(涙がぽろぽろ出て、此れが一番大変な仕事)。豚の脂身は二センチの角切り、その他の肉も二センチほどの長方形に切って(これは油で手がぬるぬるして苦手)、醤油と砂糖少量、米酒少量を混ぜ入れて漬けておきます。赤土で厚く包まれている生の塩卵は、土をきれいに洗いとって皮を剥き、白身は使わずに黄身だけを二つに切っておきます。私は、縫い糸の一端を歯で固定し、下がった糸を黄身に巻いて引っ張ると言う、伝統的な台湾の方法で切りますが、包丁で切るよりずっときれいに仕上ります。
翌日は早朝から実家の母が来て粽作りの指導です。先ず熱した鍋に豚の脂身を入れて、ラードを作ります。出来たラードは一旦他の器に移し、鍋に残った油で葱のみじん切りを炒めます。この時、絶対に焦がさない様に要注意。いい香りが強く出るまで炒めたら半量程を鍋に残して、後は器に移します。鍋に、豚肉だけ(漬け汁は別途に使う)を入れ、刻み葱と混ぜて、味を見ながらゆっくり丁寧に炒めます。表面の色が変わるくらいに炒めたら、適量の水を入れ、、他の鍋に移して暫く煮ます。一方、空いた鍋は洗って、ピーナッツを、肉の漬け汁少少、塩、醤油各少量で味付けして炒め、これも暫く煮ます。(味付けは絶対に辛すぎない様に薄味で)。里芋の蒸したのは、一口大に切って、同じように炒めて味をつけておきます。最後に糯米を、残った肉の煮汁全部で炒め、半煮え近くになったら別の入れ物に移します。此れで材料が揃いました。次は竹の葉に材料を入れて包むのですが、仕事がし易いように高い所に渡した長い竿(物干し竿が最適)に藺草の束を掛け、使い良い様に身の回りに材料を並べて、さて、椅子に座ってじっくりと粽作りを始めます。俗語に「どんなに暑くても五日節までは冬着をしまうな」(無食五月粽 破裘不甘放)と言われているように、梅雨の前後の変わりやすい天気も五日節にはすっかり夏日になりますので、早朝からの台所仕事で、もうその頃は汗びっしょり、でも此れからが大変なのです。竹の葉を、角を下にした三角形に取り、まず糯米を、真中に具を入れられるようにあかして入れます。次に肉、ピーナッツ、椎茸各少量、塩卵の黄身半個等の具を入れ、上から餅米を被せ入れたら、竹の葉を折って、三角形の、粽の形に整えて、上から下がっている紐に一つづつ結び付けます。この時の形の整え方が下手だと、いびつなのが出来てみっともなく、結びが緩すぎると後で煮る時沸騰した湯の中で水中分解、きつ過ぎると中が半煮え、上手に作れない新婚の嫁さんが、先輩や年季の入った御手伝いさん等に笑われて口惜しい思いをさせられるのもこの粽作りです。家では、火加減、水加減を守るのは御手伝いさん。母が指導します。粽を包むのは私、私のは好い形に出来て固さも適当、母からも誉められていました。母が元気だった頃は母も包むのを手伝ってくれましたが、晩年には、包む私の側に椅子を寄せて、母子二人手を動かしながらの四方山話、噂話や思い出話に怒ったり笑ったり, 時には年とったお手伝いさんも話しに入り、時には突然凄い夕立に、開け放した窓から大粒の雨が降り込んで、材料を濡らすまいと大慌てしたり、何かの拍子に竿が外れて、粽の束が、突然ばさっと落ちてきて!!始末に、てんやわんやの騒ぎで大笑いになった事もあり、思い出すに懐かしい粽作りの午後でした。
次は粽を煮る事、藺草の束は、家では深い大鍋のサイズに合わせて一束28本です。一束に28個を結び終えた粽は、大鍋に沸騰している湯で煮ますが、その際、一度湯の中に入れたのを、すぐに引き上げては下ろす動作を二三回繰り返してから蓋をするのが母の秘訣。こうすると鍋の中の粽の間に十分湯が行き渡って、深鍋一杯に粽を入れても出来あがりにむらがありません。こうして、ぐつぐつと四〇分間煮て出来あがり。
その頃にはもう子供達が下校している時間、待ってましたとばかりに入ってきて、熱つ熱つの粽が次々と解かれます。朝から指導していた母も一休みして一口試食。解くと、ぷーんと鼻先をくすぐる竹の葉の香り、白に近い程に薄い醤油色の、艶やかな糯米ご飯、箸を入れて割ると、中には黄色い塩卵に椎茸の黒、里芋のうすむらさき、柔らかく煮あがった、脂身の多い肉、ピーナッツ。相好を崩して食べている大満足の父と主人、「やっぱりおばあちゃんの粽は一番だ」という言葉が自然と出てきます。弟や子供達達の嬉しそうに頬ばる姿、台所では今年の出来映えを喜んでいる御手伝いさん。食卓の側では、尾を振っておこぼれをねだっている二匹の飼い犬。思えばあれが本当に家族の幸せだったのでした。
試食の間にも台所の仕事は休めません。鍋の中の粽は常に水を被って居る状態でなければならないのですが、茹で湯はすぐ蒸発して水位が下がるので、予備の大鍋に湯を沸かして時時継ぎ足します。蓋を開けて調べる度に、もうもうと勢いよく立ちあがる湯気、その脂っこい湯気にあふられる暑さ、そして、山ほどの材料を包むのも大仕事、一束出来あがった端から、間を置かずに茹で続けても、それらを包み上げ、全部茹であがるのは、何時も夕立も過ぎ、家々に灯が点った後。汗と油でまみれた凄い格好はさておいて、出来あがったのを、竿に通し、早く涼しい場所に移し終えて、この年の粽作りがやっと終了します。
翌日の五日節のお供えには、肉粽と粳粽の二種類が必要で、母も若かりし頃には粳粽も作りました。粳粽は肉粽と同じく竹の葉に糯米を包んで茹でた粽ですが、材料が違います。粳粽に使うのは、取立ての鮮やかな緑色の緑竹の葉、糯米は短い丸い形の品種で、此れを洗って笊に空け、粳粉(中国語では鹸粉)と言う、アルカリ性の粉を少量混ぜ入れます。この分量が大切で、多く混ぜすぎると苦いし、少ないと茹で上がった粽は半透明にならずに、米粒の形が残って見難く固く、美味しくありません。要領は、包み終わった粽を手にとって振り、中の米の動く、かさこそという、小さい音が聞えたら丁度いい分量なのです。出来あがったのは半透明な黄色の、ぷりぷりした餅に近い感じの粽で、冷えたのに蜂蜜をつけて頂きますが、新鮮な緑色の葉と黄色の粽は見た目にも心地よく、夏向きの涼しい粽です。しかし加減が難しい上に、茹で時間もずっと長く、燃料の不経済などで晩年の母は作らなくなりました。
母も亡くなり、子供達もそれぞれ独立して、主人と二人だけになった今、私の五日節は、ご先祖様へのお供えの二種の粽と季節の果物、門口の菖蒲、菜豆と茄子を食べる事だけです。粽も市販の、木綿の糸で結んだ情緒ゼロのを少し買ってお供えしているだけ。以前の事が嘘のような簡単さです。
端午の節句には、まだいろいろの行事があります。学者だった屈原を偲んで、毎年のこの日には詩会が開かれ、新聞などでも詩のコンテストがありましたし、東洋式ボートレースの划龍船(ペーリョンツゥン)(長崎のペイロンと同じ)はあまりにも有名です。端午の日の午時(うまの刻)、十二時きっかりに生卵を立てると、倒れずに縦に真直ぐ立つ。とか、この日の正午に汲んだ水は「午時水」といって、薬用にもなり、何時までも腐らないとか、子供の頃よく聞かされました。昔話のついでに、昔から伝わる端午の節句にかかわる話を記しましょう。
白蛇傳
昔々、山奥に白蛇の精と青蛇の精が住んでいました。初夏の或る日、仲の良い二匹の蛇の精は里に行きたくなり、白蛇は「白素貞」と言う名のお嬢さんに、青蛇は「小青」という召使いに化けて行きました。湖に船を浮かべて遊んでいると突然の大雨、蛇は雨は平気ですが今日は人間の姿です。困っている所へ許仙と言う人が通りかかりました。許仙は京に登って「状元」になる為に毎日勉強している貧乏学生です。親切な許仙は「私の所で雨宿りなさい。傘を貸してあげましょう」と二人を自分の家に誘いました。許仙の家で雨宿りしている中に、白素貞と許仙はすっかり気が合って、遂に二人は一緒になってしまいます。白素貞は許仙の所での貧乏に耐え切れず、何とかして金を作ろうと、一策を案じました。白素貞は元来が白蛇の精ですから幾らでも毒があります。その毒を青蛇の小青にそっと村中にばら撒かせました。そして、多くの村人が毒に当って困っている所へ、解毒の薬を、何も知らない許仙に持たせて直させたので、許仙は一躍名医になり、裕福になりました。
さて許仙が上京して役人になる試験の日が近ずき、猛勉強のため、許仙は金山寺にこもります。金山寺の住持法海法師は徳の高い和尚さんですから、許仙を一目みるなり事情を悟って、「あなたの顔は異様に黒ずんでいる。きっと魔物に取りつかれているのだ。注意しなさい。私が妖怪退治をしてあげよう」と言いましたが、許仙が信じないので、法海法師は雄黄の粉を少し包み、「端午の節句の日にこれを酒に混ぜて彼女に飲ませなさい」と言付けました。雄黄は蛇などの毒を退治する薬です。いよいよ端午の節句、許仙は節句のご馳走の時、白素貞がなかなか応じないのを無理に誘って酒を飲ませました。酒の中には予め雄黄が入っていたので、白素貞はたまりません。苦しくなって部屋に駆込み、許仙が行って見ると、大きな白蛇が床にのた打ち回って居るでは有りませんか。驚いた許仙は助けを求めて法海法師の所に駆込みました。許仙を追って行った白蛇の精は、寺の外で法海法師に夫許仙を返せと迫りますが「お前は山に帰れ」と法海法師は許しません。其処で法海法師と白蛇の精の法術比べが始まりました。白蛇の精は大洪水を起して寺を水浸しにしようとしますが、水嵩が増す毎に法海法師は法術で寺の塀をどんどん高くして防ぎました。所が水は村中に溢れ、多くの死者が出てきます。其処で考えた法海法師、白蛇の精が身ごもっているのを利用して、法の力で子供を産ませてしまいました。出産で気力をそがれた白蛇の精はとうとう負けて、法海法師に大きな鐘の下に被せられ、雷峰塔と言う法塔の中に閉じ込められてしまいました。
白蛇の精と許仙の間に生まれた男の子は、後に京に登って「状元」の試験に合格し、位の高い役人になりましたが、自分の母親が塔の中に閉じ込められているのを嘆き、何とかして母を助けたいと、郷里に戻って鐘の前に額ずき、一心に祈りました。祈っては母を慕って泣くその心根がとうとう天に届き、突然鐘が割れて中から一匹の大きな白蛇が現れ、昇天して行ったと言う事です。
ここまで書いて、私は、歌舞伎の道成寺の、安珍清姫の物語にも、鐘の下に閉じ込められた蛇の話があるのを思い出しました。白蛇傳と道成寺の物語と、何処かで繋がっているかも、と思いますが、私の貧しい知識ではどうにもなりません。
唐詩の一節に「獨在異郷為異客、毎逢佳節倍思親」(独りで異国に居ると、佳節に逢う度に、殊更に親しい人達の事が懐かしく思い出される)と有ります。私は異国に居るのでは有りませんが、歳でしようか、五月節の此の頃、昔の事、母の事等がしきりに思い出されます。懐かしさに、私の経てきた五日節を記しておきたくなり、机に向かいましたが、思い出が思い出を呼んで尽きる事無く、こんなに長くなってしまいました。年寄りの繰り言にお付合い下さいまして、ありがとうございました。
獨在異郷為異客、毎逢佳節倍思親。
遥知兄弟登高處、徧挿茱萸少一人。 王 維
2002年6月21日 心心
六月十五日は旧暦の五月五日、端午の節句の日でした。端午の節句は中国語では「端午節」といいますが、五日の日の節日ですから台湾では「五日節」と言います。ちなみに、端午という言葉は月の第五日、五日の古語でしたが、唐の玄宗の「端午仲夏」と言う詩から、宋、元と伝わるにつれて何時の間に五月五日だけが端午と言われるようになったと言う事です
その五日節の事を少しお話ししましょう。
五日節は台湾では、新年、中秋節と共に一年の三大節で国定休日。お役所も大きな会社などもお休みです。
この日はどの家庭でも粽を食べるのが慣例で、別名「肉粽節」とも言われています。
もともと五月は、台湾の暦の上では毒月と言って、毒気の多い良くない月ということでした。ですから民間では、門口に菖蒲、榕樹、艾草の葉を束ねて挿し、「雄黄」という漢方薬の入った酒を飲んだり、或いは雄黄を入れた水で体を洗うなどし、子供達には虫除けの香料を入れた布の小袋を付けさせました。雄黄は駆毒作用が有り、形が剣に似ている菖蒲の葉、健康長寿を意味する榕樹の葉、毒消しの薬草艾草の葉等は、皆「毒月」の毒よけのお呪いです。治水の悪かった昔は、五月には洪水が起こりやすく「五日水」と怖れられていました。夏の洪水の後には疫病も蔓延しやいので、これらは、此れからの暑さに備えての健康を守る、昔の人の生活の知恵だったのでしよう。又、この日には卵を食べると綺麗になるとも言われるのも、夏ばて防ぎの栄養補給を意味しているのでしようし、莢付きの豆(菜豆)、と茄子を食べる習慣も、この野菜の名の発音に懸けて長寿を願い、元気良く溌剌とする様に、と言う願いからです。
五日節に欠かせないのは粽。その粽にはこんな由来があります。
昔、中国の戦国時代、楚の国に、屈原と言う高官がいました。「大夫」と言って、国政に進言出来る地位です。人格者で学問もあり、常に国王に民の為になる政策を勧め、始めは信任が厚かったのですが、後に、奸臣の讒言を信じた無能の国王に容れられず、失望のあまり、とうとう汨羅江と言う河に身を投げてしまいました。一般の民衆に大変尊敬されていた人ですから、人々は嘆き哀しみ、深い川底に沈んだまま上がってこない屈原の亡骸が魚に食われ無い様に、魚達を満腹させておこうと、ご飯を竹の皮で包んだり、竹筒に詰めたりして沢山河に投げ込みました。それから毎年のこの日に粽を作って屈原の供養をしたのが、毎年のこの日に粽を食べる習慣になったのです。
そんな悲しい歴史で始まった粽、でも、今では五日節に粽を食べるのは、楽しい年中行事の一つになりました。子供に下げさせた小袋も、最初は魔除けだったので、強く勇ましい虎の形が多く「虎仔香」と言われていましたが、だんだん精緻な手芸品になり、今では色取り取りの布で、粽や兔、人形などを形どった、時節向きの可愛いアクセサリーです。粽も、以前はどの家庭でもその数日前には粽作りに忙しく、各家庭の味を競いあったものでしたが、現在では市販で済ませるのが多く、此の頃になると市場に、伝統の肉粽(バァツァン)、粳粽(キーツァン、中国語では鹸粽と言う)、の他に、小豆餡のや、菜食者向きの粽、月桃の葉で包んだピーナッツ粽、戦後移住して来た中国各地方の人達の、それぞれの郷里の味や形の粽、と多種多様なのが出まわっています。
我が家でも実家の母が存命の頃は、毎年母の指導で作っていました。母の粽は、伝統の肉粽(バァツァン)、家族自慢の粽で、母亡き後の今では、その味に匹敵できる粽に「絶対」出会うことが出来ないと言うのが、我が家族達の合言葉です。たまさか美味しいのに出会っても、それは「少しおばあちゃんのに似ている」と言うのが、その粽に対する最上の誉め言葉です。
我が家の肉粽の作り方を記しておきましょう。
肉粽は少しだけ作るものではないのですが、我が家は大の粽好き、殊に他人の粽は絶対に不味いと決めてかかって食べたがらないので、弟妹達や、何日続けて食べても飽きない子供達、子供達の友達へのお裾け用、等の為に、多い時には二百個前後も作っていました。五日節にはご先祖様にも粽を供えますが、この日のお供えは正午を越えてはならないしきたりで、粽は前日に作っておかねばならず、従って下拵えはその又前日に済ませておきます。
肉粽の材料は、①乾燥した孟宗竹の葉(粽を包むのに使う) ②粽を結ぶ乾燥した藺草の束(繊維が強いので、昔は野菜や肉などを結ぶのに使われていた。粽を結ぶのに最適) ③糯米(粒の長い形の品種)④豚の三枚肉と脂身 ⑤生の塩卵 ⑥椎茸 ⑦生のピーナッツ ⑧里芋(ねばねばした小さい衣かつぎではなく、大きくて、さくさくした品種) ⑨乾燥した葱の球根 ⑩醤油、塩、酒(米酒)、砂糖各少量。
先ず、乾燥した孟宗竹の葉の束をほぐして暫く水に漬け、柔らかくなったら、新しいたわしで、注意深く、きれいに洗います。竹の葉は薄くて破れやすいし、時には蜘蛛の巣などがついているのです。腰がしっかりして丈夫な孟宗竹の皮(味噌を包んでいる竹の皮)を使う家庭もあり、その方が作りやすいのですが、粽らしい情緒がなくて母は使いませんでした。又月桃の葉も丈夫ですが、あの香りを嫌って、家のは必ずオリジナルな孟宗竹の葉と決まっていました。紐の束も水につけておきます。椎茸は水で戻し、蔕を取って5ミリ程の線切り。漬け水は捨てません。(その他に干し蝦や栗、干貝柱、干し牡蠣などを具に入れる人がありますが、母は嫌いました)糯米は洗ってざっと水を切り、ピーナッツは暫く水につけておきます。里芋は皮をむいて四五個の立て割りにし、蒸して置きます。乾燥した葱の球根はみじん切り(涙がぽろぽろ出て、此れが一番大変な仕事)。豚の脂身は二センチの角切り、その他の肉も二センチほどの長方形に切って(これは油で手がぬるぬるして苦手)、醤油と砂糖少量、米酒少量を混ぜ入れて漬けておきます。赤土で厚く包まれている生の塩卵は、土をきれいに洗いとって皮を剥き、白身は使わずに黄身だけを二つに切っておきます。私は、縫い糸の一端を歯で固定し、下がった糸を黄身に巻いて引っ張ると言う、伝統的な台湾の方法で切りますが、包丁で切るよりずっときれいに仕上ります。
翌日は早朝から実家の母が来て粽作りの指導です。先ず熱した鍋に豚の脂身を入れて、ラードを作ります。出来たラードは一旦他の器に移し、鍋に残った油で葱のみじん切りを炒めます。この時、絶対に焦がさない様に要注意。いい香りが強く出るまで炒めたら半量程を鍋に残して、後は器に移します。鍋に、豚肉だけ(漬け汁は別途に使う)を入れ、刻み葱と混ぜて、味を見ながらゆっくり丁寧に炒めます。表面の色が変わるくらいに炒めたら、適量の水を入れ、、他の鍋に移して暫く煮ます。一方、空いた鍋は洗って、ピーナッツを、肉の漬け汁少少、塩、醤油各少量で味付けして炒め、これも暫く煮ます。(味付けは絶対に辛すぎない様に薄味で)。里芋の蒸したのは、一口大に切って、同じように炒めて味をつけておきます。最後に糯米を、残った肉の煮汁全部で炒め、半煮え近くになったら別の入れ物に移します。此れで材料が揃いました。次は竹の葉に材料を入れて包むのですが、仕事がし易いように高い所に渡した長い竿(物干し竿が最適)に藺草の束を掛け、使い良い様に身の回りに材料を並べて、さて、椅子に座ってじっくりと粽作りを始めます。俗語に「どんなに暑くても五日節までは冬着をしまうな」(無食五月粽 破裘不甘放)と言われているように、梅雨の前後の変わりやすい天気も五日節にはすっかり夏日になりますので、早朝からの台所仕事で、もうその頃は汗びっしょり、でも此れからが大変なのです。竹の葉を、角を下にした三角形に取り、まず糯米を、真中に具を入れられるようにあかして入れます。次に肉、ピーナッツ、椎茸各少量、塩卵の黄身半個等の具を入れ、上から餅米を被せ入れたら、竹の葉を折って、三角形の、粽の形に整えて、上から下がっている紐に一つづつ結び付けます。この時の形の整え方が下手だと、いびつなのが出来てみっともなく、結びが緩すぎると後で煮る時沸騰した湯の中で水中分解、きつ過ぎると中が半煮え、上手に作れない新婚の嫁さんが、先輩や年季の入った御手伝いさん等に笑われて口惜しい思いをさせられるのもこの粽作りです。家では、火加減、水加減を守るのは御手伝いさん。母が指導します。粽を包むのは私、私のは好い形に出来て固さも適当、母からも誉められていました。母が元気だった頃は母も包むのを手伝ってくれましたが、晩年には、包む私の側に椅子を寄せて、母子二人手を動かしながらの四方山話、噂話や思い出話に怒ったり笑ったり, 時には年とったお手伝いさんも話しに入り、時には突然凄い夕立に、開け放した窓から大粒の雨が降り込んで、材料を濡らすまいと大慌てしたり、何かの拍子に竿が外れて、粽の束が、突然ばさっと落ちてきて!!始末に、てんやわんやの騒ぎで大笑いになった事もあり、思い出すに懐かしい粽作りの午後でした。
次は粽を煮る事、藺草の束は、家では深い大鍋のサイズに合わせて一束28本です。一束に28個を結び終えた粽は、大鍋に沸騰している湯で煮ますが、その際、一度湯の中に入れたのを、すぐに引き上げては下ろす動作を二三回繰り返してから蓋をするのが母の秘訣。こうすると鍋の中の粽の間に十分湯が行き渡って、深鍋一杯に粽を入れても出来あがりにむらがありません。こうして、ぐつぐつと四〇分間煮て出来あがり。
その頃にはもう子供達が下校している時間、待ってましたとばかりに入ってきて、熱つ熱つの粽が次々と解かれます。朝から指導していた母も一休みして一口試食。解くと、ぷーんと鼻先をくすぐる竹の葉の香り、白に近い程に薄い醤油色の、艶やかな糯米ご飯、箸を入れて割ると、中には黄色い塩卵に椎茸の黒、里芋のうすむらさき、柔らかく煮あがった、脂身の多い肉、ピーナッツ。相好を崩して食べている大満足の父と主人、「やっぱりおばあちゃんの粽は一番だ」という言葉が自然と出てきます。弟や子供達達の嬉しそうに頬ばる姿、台所では今年の出来映えを喜んでいる御手伝いさん。食卓の側では、尾を振っておこぼれをねだっている二匹の飼い犬。思えばあれが本当に家族の幸せだったのでした。
試食の間にも台所の仕事は休めません。鍋の中の粽は常に水を被って居る状態でなければならないのですが、茹で湯はすぐ蒸発して水位が下がるので、予備の大鍋に湯を沸かして時時継ぎ足します。蓋を開けて調べる度に、もうもうと勢いよく立ちあがる湯気、その脂っこい湯気にあふられる暑さ、そして、山ほどの材料を包むのも大仕事、一束出来あがった端から、間を置かずに茹で続けても、それらを包み上げ、全部茹であがるのは、何時も夕立も過ぎ、家々に灯が点った後。汗と油でまみれた凄い格好はさておいて、出来あがったのを、竿に通し、早く涼しい場所に移し終えて、この年の粽作りがやっと終了します。
翌日の五日節のお供えには、肉粽と粳粽の二種類が必要で、母も若かりし頃には粳粽も作りました。粳粽は肉粽と同じく竹の葉に糯米を包んで茹でた粽ですが、材料が違います。粳粽に使うのは、取立ての鮮やかな緑色の緑竹の葉、糯米は短い丸い形の品種で、此れを洗って笊に空け、粳粉(中国語では鹸粉)と言う、アルカリ性の粉を少量混ぜ入れます。この分量が大切で、多く混ぜすぎると苦いし、少ないと茹で上がった粽は半透明にならずに、米粒の形が残って見難く固く、美味しくありません。要領は、包み終わった粽を手にとって振り、中の米の動く、かさこそという、小さい音が聞えたら丁度いい分量なのです。出来あがったのは半透明な黄色の、ぷりぷりした餅に近い感じの粽で、冷えたのに蜂蜜をつけて頂きますが、新鮮な緑色の葉と黄色の粽は見た目にも心地よく、夏向きの涼しい粽です。しかし加減が難しい上に、茹で時間もずっと長く、燃料の不経済などで晩年の母は作らなくなりました。
母も亡くなり、子供達もそれぞれ独立して、主人と二人だけになった今、私の五日節は、ご先祖様へのお供えの二種の粽と季節の果物、門口の菖蒲、菜豆と茄子を食べる事だけです。粽も市販の、木綿の糸で結んだ情緒ゼロのを少し買ってお供えしているだけ。以前の事が嘘のような簡単さです。
端午の節句には、まだいろいろの行事があります。学者だった屈原を偲んで、毎年のこの日には詩会が開かれ、新聞などでも詩のコンテストがありましたし、東洋式ボートレースの划龍船(ペーリョンツゥン)(長崎のペイロンと同じ)はあまりにも有名です。端午の日の午時(うまの刻)、十二時きっかりに生卵を立てると、倒れずに縦に真直ぐ立つ。とか、この日の正午に汲んだ水は「午時水」といって、薬用にもなり、何時までも腐らないとか、子供の頃よく聞かされました。昔話のついでに、昔から伝わる端午の節句にかかわる話を記しましょう。
白蛇傳
昔々、山奥に白蛇の精と青蛇の精が住んでいました。初夏の或る日、仲の良い二匹の蛇の精は里に行きたくなり、白蛇は「白素貞」と言う名のお嬢さんに、青蛇は「小青」という召使いに化けて行きました。湖に船を浮かべて遊んでいると突然の大雨、蛇は雨は平気ですが今日は人間の姿です。困っている所へ許仙と言う人が通りかかりました。許仙は京に登って「状元」になる為に毎日勉強している貧乏学生です。親切な許仙は「私の所で雨宿りなさい。傘を貸してあげましょう」と二人を自分の家に誘いました。許仙の家で雨宿りしている中に、白素貞と許仙はすっかり気が合って、遂に二人は一緒になってしまいます。白素貞は許仙の所での貧乏に耐え切れず、何とかして金を作ろうと、一策を案じました。白素貞は元来が白蛇の精ですから幾らでも毒があります。その毒を青蛇の小青にそっと村中にばら撒かせました。そして、多くの村人が毒に当って困っている所へ、解毒の薬を、何も知らない許仙に持たせて直させたので、許仙は一躍名医になり、裕福になりました。
さて許仙が上京して役人になる試験の日が近ずき、猛勉強のため、許仙は金山寺にこもります。金山寺の住持法海法師は徳の高い和尚さんですから、許仙を一目みるなり事情を悟って、「あなたの顔は異様に黒ずんでいる。きっと魔物に取りつかれているのだ。注意しなさい。私が妖怪退治をしてあげよう」と言いましたが、許仙が信じないので、法海法師は雄黄の粉を少し包み、「端午の節句の日にこれを酒に混ぜて彼女に飲ませなさい」と言付けました。雄黄は蛇などの毒を退治する薬です。いよいよ端午の節句、許仙は節句のご馳走の時、白素貞がなかなか応じないのを無理に誘って酒を飲ませました。酒の中には予め雄黄が入っていたので、白素貞はたまりません。苦しくなって部屋に駆込み、許仙が行って見ると、大きな白蛇が床にのた打ち回って居るでは有りませんか。驚いた許仙は助けを求めて法海法師の所に駆込みました。許仙を追って行った白蛇の精は、寺の外で法海法師に夫許仙を返せと迫りますが「お前は山に帰れ」と法海法師は許しません。其処で法海法師と白蛇の精の法術比べが始まりました。白蛇の精は大洪水を起して寺を水浸しにしようとしますが、水嵩が増す毎に法海法師は法術で寺の塀をどんどん高くして防ぎました。所が水は村中に溢れ、多くの死者が出てきます。其処で考えた法海法師、白蛇の精が身ごもっているのを利用して、法の力で子供を産ませてしまいました。出産で気力をそがれた白蛇の精はとうとう負けて、法海法師に大きな鐘の下に被せられ、雷峰塔と言う法塔の中に閉じ込められてしまいました。
白蛇の精と許仙の間に生まれた男の子は、後に京に登って「状元」の試験に合格し、位の高い役人になりましたが、自分の母親が塔の中に閉じ込められているのを嘆き、何とかして母を助けたいと、郷里に戻って鐘の前に額ずき、一心に祈りました。祈っては母を慕って泣くその心根がとうとう天に届き、突然鐘が割れて中から一匹の大きな白蛇が現れ、昇天して行ったと言う事です。
ここまで書いて、私は、歌舞伎の道成寺の、安珍清姫の物語にも、鐘の下に閉じ込められた蛇の話があるのを思い出しました。白蛇傳と道成寺の物語と、何処かで繋がっているかも、と思いますが、私の貧しい知識ではどうにもなりません。
唐詩の一節に「獨在異郷為異客、毎逢佳節倍思親」(独りで異国に居ると、佳節に逢う度に、殊更に親しい人達の事が懐かしく思い出される)と有ります。私は異国に居るのでは有りませんが、歳でしようか、五月節の此の頃、昔の事、母の事等がしきりに思い出されます。懐かしさに、私の経てきた五日節を記しておきたくなり、机に向かいましたが、思い出が思い出を呼んで尽きる事無く、こんなに長くなってしまいました。年寄りの繰り言にお付合い下さいまして、ありがとうございました。
獨在異郷為異客、毎逢佳節倍思親。
遥知兄弟登高處、徧挿茱萸少一人。 王 維
2002年6月21日 心心

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