故鄉

Saturday, December 24, 2005

五日節 (日本の友人への手紙より)

五日節 (日本の友人への手紙より)
  
六月十五日は旧暦の五月五日、端午の節句の日でした。端午の節句は中国語では「端午節」といいますが、五日の日の節日ですから台湾では「五日節」と言います。ちなみに、端午という言葉は月の第五日、五日の古語でしたが、唐の玄宗の「端午仲夏」と言う詩から、宋、元と伝わるにつれて何時の間に五月五日だけが端午と言われるようになったと言う事です
その五日節の事を少しお話ししましょう。
 五日節は台湾では、新年、中秋節と共に一年の三大節で国定休日。お役所も大きな会社などもお休みです。
この日はどの家庭でも粽を食べるのが慣例で、別名「肉粽節」とも言われています。
もともと五月は、台湾の暦の上では毒月と言って、毒気の多い良くない月ということでした。ですから民間では、門口に菖蒲、榕樹、艾草の葉を束ねて挿し、「雄黄」という漢方薬の入った酒を飲んだり、或いは雄黄を入れた水で体を洗うなどし、子供達には虫除けの香料を入れた布の小袋を付けさせました。雄黄は駆毒作用が有り、形が剣に似ている菖蒲の葉、健康長寿を意味する榕樹の葉、毒消しの薬草艾草の葉等は、皆「毒月」の毒よけのお呪いです。治水の悪かった昔は、五月には洪水が起こりやすく「五日水」と怖れられていました。夏の洪水の後には疫病も蔓延しやいので、これらは、此れからの暑さに備えての健康を守る、昔の人の生活の知恵だったのでしよう。又、この日には卵を食べると綺麗になるとも言われるのも、夏ばて防ぎの栄養補給を意味しているのでしようし、莢付きの豆(菜豆)、と茄子を食べる習慣も、この野菜の名の発音に懸けて長寿を願い、元気良く溌剌とする様に、と言う願いからです。
五日節に欠かせないのは粽。その粽にはこんな由来があります。
 昔、中国の戦国時代、楚の国に、屈原と言う高官がいました。「大夫」と言って、国政に進言出来る地位です。人格者で学問もあり、常に国王に民の為になる政策を勧め、始めは信任が厚かったのですが、後に、奸臣の讒言を信じた無能の国王に容れられず、失望のあまり、とうとう汨羅江と言う河に身を投げてしまいました。一般の民衆に大変尊敬されていた人ですから、人々は嘆き哀しみ、深い川底に沈んだまま上がってこない屈原の亡骸が魚に食われ無い様に、魚達を満腹させておこうと、ご飯を竹の皮で包んだり、竹筒に詰めたりして沢山河に投げ込みました。それから毎年のこの日に粽を作って屈原の供養をしたのが、毎年のこの日に粽を食べる習慣になったのです。
 そんな悲しい歴史で始まった粽、でも、今では五日節に粽を食べるのは、楽しい年中行事の一つになりました。子供に下げさせた小袋も、最初は魔除けだったので、強く勇ましい虎の形が多く「虎仔香」と言われていましたが、だんだん精緻な手芸品になり、今では色取り取りの布で、粽や兔、人形などを形どった、時節向きの可愛いアクセサリーです。粽も、以前はどの家庭でもその数日前には粽作りに忙しく、各家庭の味を競いあったものでしたが、現在では市販で済ませるのが多く、此の頃になると市場に、伝統の肉粽(バァツァン)、粳粽(キーツァン、中国語では鹸粽と言う)、の他に、小豆餡のや、菜食者向きの粽、月桃の葉で包んだピーナッツ粽、戦後移住して来た中国各地方の人達の、それぞれの郷里の味や形の粽、と多種多様なのが出まわっています。
 我が家でも実家の母が存命の頃は、毎年母の指導で作っていました。母の粽は、伝統の肉粽(バァツァン)、家族自慢の粽で、母亡き後の今では、その味に匹敵できる粽に「絶対」出会うことが出来ないと言うのが、我が家族達の合言葉です。たまさか美味しいのに出会っても、それは「少しおばあちゃんのに似ている」と言うのが、その粽に対する最上の誉め言葉です。
 我が家の肉粽の作り方を記しておきましょう。
肉粽は少しだけ作るものではないのですが、我が家は大の粽好き、殊に他人の粽は絶対に不味いと決めてかかって食べたがらないので、弟妹達や、何日続けて食べても飽きない子供達、子供達の友達へのお裾け用、等の為に、多い時には二百個前後も作っていました。五日節にはご先祖様にも粽を供えますが、この日のお供えは正午を越えてはならないしきたりで、粽は前日に作っておかねばならず、従って下拵えはその又前日に済ませておきます。
 肉粽の材料は、①乾燥した孟宗竹の葉(粽を包むのに使う) ②粽を結ぶ乾燥した藺草の束(繊維が強いので、昔は野菜や肉などを結ぶのに使われていた。粽を結ぶのに最適) ③糯米(粒の長い形の品種)④豚の三枚肉と脂身 ⑤生の塩卵 ⑥椎茸 ⑦生のピーナッツ ⑧里芋(ねばねばした小さい衣かつぎではなく、大きくて、さくさくした品種) ⑨乾燥した葱の球根 ⑩醤油、塩、酒(米酒)、砂糖各少量。
 先ず、乾燥した孟宗竹の葉の束をほぐして暫く水に漬け、柔らかくなったら、新しいたわしで、注意深く、きれいに洗います。竹の葉は薄くて破れやすいし、時には蜘蛛の巣などがついているのです。腰がしっかりして丈夫な孟宗竹の皮(味噌を包んでいる竹の皮)を使う家庭もあり、その方が作りやすいのですが、粽らしい情緒がなくて母は使いませんでした。又月桃の葉も丈夫ですが、あの香りを嫌って、家のは必ずオリジナルな孟宗竹の葉と決まっていました。紐の束も水につけておきます。椎茸は水で戻し、蔕を取って5ミリ程の線切り。漬け水は捨てません。(その他に干し蝦や栗、干貝柱、干し牡蠣などを具に入れる人がありますが、母は嫌いました)糯米は洗ってざっと水を切り、ピーナッツは暫く水につけておきます。里芋は皮をむいて四五個の立て割りにし、蒸して置きます。乾燥した葱の球根はみじん切り(涙がぽろぽろ出て、此れが一番大変な仕事)。豚の脂身は二センチの角切り、その他の肉も二センチほどの長方形に切って(これは油で手がぬるぬるして苦手)、醤油と砂糖少量、米酒少量を混ぜ入れて漬けておきます。赤土で厚く包まれている生の塩卵は、土をきれいに洗いとって皮を剥き、白身は使わずに黄身だけを二つに切っておきます。私は、縫い糸の一端を歯で固定し、下がった糸を黄身に巻いて引っ張ると言う、伝統的な台湾の方法で切りますが、包丁で切るよりずっときれいに仕上ります。
 翌日は早朝から実家の母が来て粽作りの指導です。先ず熱した鍋に豚の脂身を入れて、ラードを作ります。出来たラードは一旦他の器に移し、鍋に残った油で葱のみじん切りを炒めます。この時、絶対に焦がさない様に要注意。いい香りが強く出るまで炒めたら半量程を鍋に残して、後は器に移します。鍋に、豚肉だけ(漬け汁は別途に使う)を入れ、刻み葱と混ぜて、味を見ながらゆっくり丁寧に炒めます。表面の色が変わるくらいに炒めたら、適量の水を入れ、、他の鍋に移して暫く煮ます。一方、空いた鍋は洗って、ピーナッツを、肉の漬け汁少少、塩、醤油各少量で味付けして炒め、これも暫く煮ます。(味付けは絶対に辛すぎない様に薄味で)。里芋の蒸したのは、一口大に切って、同じように炒めて味をつけておきます。最後に糯米を、残った肉の煮汁全部で炒め、半煮え近くになったら別の入れ物に移します。此れで材料が揃いました。次は竹の葉に材料を入れて包むのですが、仕事がし易いように高い所に渡した長い竿(物干し竿が最適)に藺草の束を掛け、使い良い様に身の回りに材料を並べて、さて、椅子に座ってじっくりと粽作りを始めます。俗語に「どんなに暑くても五日節までは冬着をしまうな」(無食五月粽 破裘不甘放)と言われているように、梅雨の前後の変わりやすい天気も五日節にはすっかり夏日になりますので、早朝からの台所仕事で、もうその頃は汗びっしょり、でも此れからが大変なのです。竹の葉を、角を下にした三角形に取り、まず糯米を、真中に具を入れられるようにあかして入れます。次に肉、ピーナッツ、椎茸各少量、塩卵の黄身半個等の具を入れ、上から餅米を被せ入れたら、竹の葉を折って、三角形の、粽の形に整えて、上から下がっている紐に一つづつ結び付けます。この時の形の整え方が下手だと、いびつなのが出来てみっともなく、結びが緩すぎると後で煮る時沸騰した湯の中で水中分解、きつ過ぎると中が半煮え、上手に作れない新婚の嫁さんが、先輩や年季の入った御手伝いさん等に笑われて口惜しい思いをさせられるのもこの粽作りです。家では、火加減、水加減を守るのは御手伝いさん。母が指導します。粽を包むのは私、私のは好い形に出来て固さも適当、母からも誉められていました。母が元気だった頃は母も包むのを手伝ってくれましたが、晩年には、包む私の側に椅子を寄せて、母子二人手を動かしながらの四方山話、噂話や思い出話に怒ったり笑ったり, 時には年とったお手伝いさんも話しに入り、時には突然凄い夕立に、開け放した窓から大粒の雨が降り込んで、材料を濡らすまいと大慌てしたり、何かの拍子に竿が外れて、粽の束が、突然ばさっと落ちてきて!!始末に、てんやわんやの騒ぎで大笑いになった事もあり、思い出すに懐かしい粽作りの午後でした。
 次は粽を煮る事、藺草の束は、家では深い大鍋のサイズに合わせて一束28本です。一束に28個を結び終えた粽は、大鍋に沸騰している湯で煮ますが、その際、一度湯の中に入れたのを、すぐに引き上げては下ろす動作を二三回繰り返してから蓋をするのが母の秘訣。こうすると鍋の中の粽の間に十分湯が行き渡って、深鍋一杯に粽を入れても出来あがりにむらがありません。こうして、ぐつぐつと四〇分間煮て出来あがり。
その頃にはもう子供達が下校している時間、待ってましたとばかりに入ってきて、熱つ熱つの粽が次々と解かれます。朝から指導していた母も一休みして一口試食。解くと、ぷーんと鼻先をくすぐる竹の葉の香り、白に近い程に薄い醤油色の、艶やかな糯米ご飯、箸を入れて割ると、中には黄色い塩卵に椎茸の黒、里芋のうすむらさき、柔らかく煮あがった、脂身の多い肉、ピーナッツ。相好を崩して食べている大満足の父と主人、「やっぱりおばあちゃんの粽は一番だ」という言葉が自然と出てきます。弟や子供達達の嬉しそうに頬ばる姿、台所では今年の出来映えを喜んでいる御手伝いさん。食卓の側では、尾を振っておこぼれをねだっている二匹の飼い犬。思えばあれが本当に家族の幸せだったのでした。
試食の間にも台所の仕事は休めません。鍋の中の粽は常に水を被って居る状態でなければならないのですが、茹で湯はすぐ蒸発して水位が下がるので、予備の大鍋に湯を沸かして時時継ぎ足します。蓋を開けて調べる度に、もうもうと勢いよく立ちあがる湯気、その脂っこい湯気にあふられる暑さ、そして、山ほどの材料を包むのも大仕事、一束出来あがった端から、間を置かずに茹で続けても、それらを包み上げ、全部茹であがるのは、何時も夕立も過ぎ、家々に灯が点った後。汗と油でまみれた凄い格好はさておいて、出来あがったのを、竿に通し、早く涼しい場所に移し終えて、この年の粽作りがやっと終了します。
 翌日の五日節のお供えには、肉粽と粳粽の二種類が必要で、母も若かりし頃には粳粽も作りました。粳粽は肉粽と同じく竹の葉に糯米を包んで茹でた粽ですが、材料が違います。粳粽に使うのは、取立ての鮮やかな緑色の緑竹の葉、糯米は短い丸い形の品種で、此れを洗って笊に空け、粳粉(中国語では鹸粉)と言う、アルカリ性の粉を少量混ぜ入れます。この分量が大切で、多く混ぜすぎると苦いし、少ないと茹で上がった粽は半透明にならずに、米粒の形が残って見難く固く、美味しくありません。要領は、包み終わった粽を手にとって振り、中の米の動く、かさこそという、小さい音が聞えたら丁度いい分量なのです。出来あがったのは半透明な黄色の、ぷりぷりした餅に近い感じの粽で、冷えたのに蜂蜜をつけて頂きますが、新鮮な緑色の葉と黄色の粽は見た目にも心地よく、夏向きの涼しい粽です。しかし加減が難しい上に、茹で時間もずっと長く、燃料の不経済などで晩年の母は作らなくなりました。
母も亡くなり、子供達もそれぞれ独立して、主人と二人だけになった今、私の五日節は、ご先祖様へのお供えの二種の粽と季節の果物、門口の菖蒲、菜豆と茄子を食べる事だけです。粽も市販の、木綿の糸で結んだ情緒ゼロのを少し買ってお供えしているだけ。以前の事が嘘のような簡単さです。
 端午の節句には、まだいろいろの行事があります。学者だった屈原を偲んで、毎年のこの日には詩会が開かれ、新聞などでも詩のコンテストがありましたし、東洋式ボートレースの划龍船(ペーリョンツゥン)(長崎のペイロンと同じ)はあまりにも有名です。端午の日の午時(うまの刻)、十二時きっかりに生卵を立てると、倒れずに縦に真直ぐ立つ。とか、この日の正午に汲んだ水は「午時水」といって、薬用にもなり、何時までも腐らないとか、子供の頃よく聞かされました。昔話のついでに、昔から伝わる端午の節句にかかわる話を記しましょう。
白蛇傳
昔々、山奥に白蛇の精と青蛇の精が住んでいました。初夏の或る日、仲の良い二匹の蛇の精は里に行きたくなり、白蛇は「白素貞」と言う名のお嬢さんに、青蛇は「小青」という召使いに化けて行きました。湖に船を浮かべて遊んでいると突然の大雨、蛇は雨は平気ですが今日は人間の姿です。困っている所へ許仙と言う人が通りかかりました。許仙は京に登って「状元」になる為に毎日勉強している貧乏学生です。親切な許仙は「私の所で雨宿りなさい。傘を貸してあげましょう」と二人を自分の家に誘いました。許仙の家で雨宿りしている中に、白素貞と許仙はすっかり気が合って、遂に二人は一緒になってしまいます。白素貞は許仙の所での貧乏に耐え切れず、何とかして金を作ろうと、一策を案じました。白素貞は元来が白蛇の精ですから幾らでも毒があります。その毒を青蛇の小青にそっと村中にばら撒かせました。そして、多くの村人が毒に当って困っている所へ、解毒の薬を、何も知らない許仙に持たせて直させたので、許仙は一躍名医になり、裕福になりました。
さて許仙が上京して役人になる試験の日が近ずき、猛勉強のため、許仙は金山寺にこもります。金山寺の住持法海法師は徳の高い和尚さんですから、許仙を一目みるなり事情を悟って、「あなたの顔は異様に黒ずんでいる。きっと魔物に取りつかれているのだ。注意しなさい。私が妖怪退治をしてあげよう」と言いましたが、許仙が信じないので、法海法師は雄黄の粉を少し包み、「端午の節句の日にこれを酒に混ぜて彼女に飲ませなさい」と言付けました。雄黄は蛇などの毒を退治する薬です。いよいよ端午の節句、許仙は節句のご馳走の時、白素貞がなかなか応じないのを無理に誘って酒を飲ませました。酒の中には予め雄黄が入っていたので、白素貞はたまりません。苦しくなって部屋に駆込み、許仙が行って見ると、大きな白蛇が床にのた打ち回って居るでは有りませんか。驚いた許仙は助けを求めて法海法師の所に駆込みました。許仙を追って行った白蛇の精は、寺の外で法海法師に夫許仙を返せと迫りますが「お前は山に帰れ」と法海法師は許しません。其処で法海法師と白蛇の精の法術比べが始まりました。白蛇の精は大洪水を起して寺を水浸しにしようとしますが、水嵩が増す毎に法海法師は法術で寺の塀をどんどん高くして防ぎました。所が水は村中に溢れ、多くの死者が出てきます。其処で考えた法海法師、白蛇の精が身ごもっているのを利用して、法の力で子供を産ませてしまいました。出産で気力をそがれた白蛇の精はとうとう負けて、法海法師に大きな鐘の下に被せられ、雷峰塔と言う法塔の中に閉じ込められてしまいました。
白蛇の精と許仙の間に生まれた男の子は、後に京に登って「状元」の試験に合格し、位の高い役人になりましたが、自分の母親が塔の中に閉じ込められているのを嘆き、何とかして母を助けたいと、郷里に戻って鐘の前に額ずき、一心に祈りました。祈っては母を慕って泣くその心根がとうとう天に届き、突然鐘が割れて中から一匹の大きな白蛇が現れ、昇天して行ったと言う事です。
ここまで書いて、私は、歌舞伎の道成寺の、安珍清姫の物語にも、鐘の下に閉じ込められた蛇の話があるのを思い出しました。白蛇傳と道成寺の物語と、何処かで繋がっているかも、と思いますが、私の貧しい知識ではどうにもなりません。 
唐詩の一節に「獨在異郷為異客、毎逢佳節倍思親」(独りで異国に居ると、佳節に逢う度に、殊更に親しい人達の事が懐かしく思い出される)と有ります。私は異国に居るのでは有りませんが、歳でしようか、五月節の此の頃、昔の事、母の事等がしきりに思い出されます。懐かしさに、私の経てきた五日節を記しておきたくなり、机に向かいましたが、思い出が思い出を呼んで尽きる事無く、こんなに長くなってしまいました。年寄りの繰り言にお付合い下さいまして、ありがとうございました。

            獨在異郷為異客、毎逢佳節倍思親。
            遥知兄弟登高處、徧挿茱萸少一人。 王 維

                     2002年6月21日  心心
                                                      

北 海 の 氷 野

あの海を、もう一度見たいと思っていた。
 ノ―スウエスト航空の、ロスアンゼルス―東京間の航路にある、あの氷の海。
幸いに今度の座席も進行方向に向かって左の列、何時もの様に主人に窓際の席を譲ってもらった。
さて、と座席の個人テレビの、現在位置を示すチャンネルを開けたが、故障している。後部座席に待機しているエァアテンデントを呼ぼうかと思ったが、出発直後の忙しさが終わったばかりで一息着いているらしく、呼ぶのも気が引けて、時々窓を開けて、目的の海を自分で見つけることにした。
ロスアンゼルスから陸伝いに北上、カナダを経てアラスカの海岸線を通り、千島列島から日本に入るコ-ス。今日も晴天だ。
ロスアンゼルスを飛び立ち、サンフランシスコを過ぎて間もなく、だんだんと濃くなった眼下の雪景色が、アンカレッジ付近では遂に一面真っ白になった。見渡す限り深い雪に覆われたアラスカの山々。道もなく、川も見えず、湖も覆い尽くされて、見えるのは唯永劫の雪を頂いた山のみ。白色の清純、静寂の美、人跡未踏と言うよりも、足跡を許されるのは神のみ、と言った敬虔な気持ちになる。出発して既に数時間、大方の乗客が寝ている機内の静けさに、雪の連峰の上空を、大型旅客機が音を殺し、巨大な太古の鳥のようになって、しんしんと移動している光景を想像する。
ふと、若し此の飛行機が此処で不時着したら?と、いつものあの思いが頭をかすめる。
旅行社のパンフレット、航空会社の広告等で見るのは、常に快適な機内サ-ビスであり豪華な食事であるが、飛行機が飛び立って一番先に乗客が知らされるのは、万一の場合にどうやって機内から脱出し、どうやって命を保つかということである。勿論、絶対安全を信じてでなければ機上の人となることは出来ないが、それでも一抹の不安は消しがたく、年に何度も太平洋を西へ東へと飛んでいる私は、何時の間にか、窓外の景色を見下ろしながら、通りすぎる場所をそんな目で見る癖が着いてしまったのだ。
此処なら、此の山の中なら、「神の懐……」という気持ちがするかな?と思う。
いよいよ待望の氷原が見えて来た。何度見ても凄い!凍ったベ-リング海!それともアリュ-シャン列島?そんな地理などどうでもいい。海が凍って見渡す限りの氷、氷野だ!これは、ぽかぽかと浮いて流れている氷山なんてものではない。大海原変じての大氷野である。あらかじめ海岸線の色を覚えておいたので、今眼下に見えるのは海だと確信できるが、まるで北極からずっと地続きのように見える。一万メ-トルの高度からの俯瞰で、機窓一杯に迫る白、白い色以外には何も見えない。さっきまでの山々の様子とは全く違って、唯唯白く、無限に広く、息の詰まるような迫力!この高度からでは一望無尽のフラットな大平原にしか見えないが、ここらには多分胸突く氷山もあろう。此の大氷原の上で生き、生活をしている大小の動物を思う。完全な無音の中で黙々と歩き、夏の夜には、大空一杯を舞うオ-ロラを見上げているであろう孤独な北国の動物達、彼等はオ-ロラに何を思うのであろうか。
機外は日が燦々と輝く日中だが、到着地東京の現在時間は夜中、それに合わせるのか、機内は窓のシャッタ-を下ろして暗くしてある。私の所だけ窓を開けていて「明かりが入る」とシチュワデスが注意に来たが、窓を閉める気にはなれず、シャッタ-を少しだけ引き下げた。氷原の岸から、今眼下に見えている場所まで何キロ、いや何十キロあるのか?こんなに厚い氷の層では砕氷船も此処までは来れまい、それを足の不自由な身が、居ながらにして、肉眼で見下ろしているのだ。科学の偉大さ、だがそれにも増して此の美しさ。目が吸いつけらて離れない。
眼下の景色は白一色だと思ったのが、暫く行くと所々に薄い灰色がかった場所も見える。氷の下の海の色だ。多分そこは氷の層が少しばかり薄いのかと思う。灰色が紺になって、湖のように見える場所もある。これはもっと浅い氷の層だろう。凍った氷の厚さで氷野の上に描かれている地図。刻々と変わる氷の海、息もつかずに見ていると、所々に氷の割れ目が見え出した。氷は直線に、直角に割れている。細く長い割れ目から垣間見える濃紺の海、あくまでも深く、暗く、地獄のように冷たそう。事故でも、此処では絶対に堕ちて貰いたくない。こんな大氷原をどうやって救助隊がたどり着けるであろう。同じ事故死でも、あんな凄い海の溝では、どんなにか冷たいことか。冷たいのは嫌だ。と、またもあらぬ事を空想して震え上がってしまう。此処は無事に通過して欲しい。
日付変更線を過ぎたかと思われる頃から、氷の割れ目がだんだん大きく多くなってきた。氷野は、大きな不等辺四角形に分けられ、徐々に面積を減らしている。暖かい黒潮のある日本が近づいたのか。
行くうちに、濃紺の溝は少しずつ海の様子を取り戻し、流れているように見えてきた。氷野はもう無く、海上一面、四角の細かい氷の群れ。細かいといっても、此の高度から見ての話で、実は大きな氷山が無数に浮いて流れているのであろう。航路がずっと南になったようだ。
そういえばもう三月。初春である。氷の海にも春は近い。
氷野を後にし、ほっと息をつく。
目の奥に先ほどの興奮をしまい込んで、私も暫く寝た。

         氷原の 割れ目に春の 兆しかな
1999.4.15.

孫達のハロ―イン

 ハロ―インの装束は、怖いものほど良いのだそうである。
 ハロ―インの頃の、アメリカの町に出たことがあった。店頭に、気味の悪い髑髏を描いた黒い衣装や大きな蜘蛛の巣が掛かっていたり、西洋のおとぎ話に出てくる魔法使い、例の、長い箒を持ち、黒の長いぼろ着を着けた、やせ細って目は窪み、尖ったかぎ鼻の老婆が、行く手を遮っていたり、と、至る所で驚かされて、その気味の悪いこと、しかも、その中を大人に連れられた幼い子供たちが、喜々として、もっと奇抜なもの、もっとおどろおどろしげなコスチュウム、と捜し回って居るのである。どういった典故から出ているか知らないが、ハロ―インの夜には、子供たちがそれぞれそういった怖い衣装を付けて化け物になり、家家の扉を叩いて回る習慣があちらにあるのだ。来られた家では心得ていて、そのお化け達にと、キャンディを準備して上げる事になっている。
 初冬の午後は暮れやすく、チャイムの音にドァを開けると、真っ暗闇の中に、骸骨ゃ妖怪など、気味の悪い装束を着けたのが立っているのは、それが習慣であるとは知っているものの実に気味悪くぞっとさせられて、私の憶病な妹などは、ハロ―インの夜は絶対に外出せず、家に居てもドァに近寄らないようにしている。そんな大人の様子も面白いし、キャンディも魅力、夜の屋外を人を威かしながらさまようのも楽しくて、これは子供等の大好きな習慣でもある。元来が子供を大切にするアメリカである上に、多分「厄よけ的」な意味があるらしく、以前はどの家でも喜んで迎え、ちゃんと子供等の好みそうなのを用意して待っていた。しかし、世の中がせち辛くなるにつれてキャンデイの質もだんだんと低下し、最近ではハロ―イン用の安いキャンデイで間に合わせているのが多いとか、それに、ある性格異常者がキャンディに毒を入れたとか言う噂まである。それこそ恐ろしい事である。
 今年の、孫たちのハロ―インの様子をオ―バ―シ―電話で聞いた。
シカゴの次男の所では、長男のデリックが忍者になった。幼稚園での流行りなのか、その母親エミ―の日本趣味の影響か、デリックが、一番強くて他人に脅しの聞くものと思っているのは忍者、黒い布を頭からすっぽり被せ、目だけを出して首のところで緩く縛って忍者の出来上がり、去年のその夜は、雨の中を出かけて風邪を引き、肺炎になって入院までした。今日も雨で寒いから今年は行かせないつもりだと、昼間の電話でエミ―が言っていたが、帰宅した次男が、それでは子供が可哀そう、折角の楽しみなのに、と、よい父親ぶりを発揮して、夕食後連れていってあげたとの事、四十を越してもまだ悪戯っ気の抜けない次男、本当は彼自身が行きたかったのかも?
「デリック喜んだでしょう!でも風邪引かせたら怒られるわよ?」
「大丈夫」
「キャンディに毒が入れられた事があるそうよ」
「もう食べたよ、美味しくなかったけどね」
知っているのにわざと一つ食べて見る、何時までもしょうがない悪戯っ子の次男である。
ヒュ―ストンの次女の子パトリックは、大好きな今流行の玩具の虎の衣装。
「着せたら、とっても可愛かったのよ」
目を細めた、幸せそうな笑顔が見えてくるような、電話の中の甘い甘い母親の声。子煩悩の最である彼女の、息子自慢は聞き慣れている。
「キャンディは?」
「あんなの捨てましたよ!」
確かに、大事な大事な一粒種のパトリックにあんなキャンディを食べさせたか?とは愚問であった。
長女の一人息子フレディは今年は何もしなかったらしい、もうそんな事は彼には幼なすぎるのだろうか?私がまだ若かった頃のこと、丁度居合わせていた私に、「フレディのハロ―インの衣裳を作ってあげて」と長女が白い古シ―ツを出してきたことがあった。アメリカ生活にまだ日が浅く、どういったものを作ればよいのか、全然見当もつかなかったし、もともと裁縫の苦手な私なので断ったが、後で、あちらのお母さんが手際よくさっさと白いお化けの衣裳を作って上げたと言う事があった。一代で大財産を築き上げてしまうようなお人は、やっぱり、することがてきぱきして私なんかとは違う、と感心したものである。その方も、もう亡くなってしまった。その時のお化けの衣裳はその後、針仕事の出来ない長女の為に随分役立ってくれたらしく、フレディのハロ―インは何時も白いお化けであったという。二人の女の子、ジェニファ―とエンジ―は、幼かった頃、どうしていたのであろう、大学生と高校生になっている今の彼女等には、そんなの、もう興味もないであろうし、末っ子のフレディも、もうハロ―インには出ない年になったと言うことは、私の娘が母親としての一つの段階を越したということになる。それだけ娘が成長し、私達が年をとったということであろう。
ミシガンの長男の嫁は、六年生のキャサリンが、チアリ―ダ―、応援団や楽隊の行進でダンスをしている少女達の先頭を行くあのチアリ―ダ―に扮したと、娘の美しく少女らしくなった姿が嬉しそうな報告であった。アメリカ人の友達をうらやまらしがらせるほど手足がのびのびと長く、活発で、人目に立ちたがる彼女が好みそうな扮装である。
「アンドリュウが今年のハロ―インに何になったと思う?」
と、得意さを隠し切れないような声は長男からの電話、小学校四年生、日頃から漫画が好きで想像力が豊富、時々自分でも漫画のスト―リ―を描いて楽しんでいる彼の長男アンドリュウ、今年の怖いもの競演になんと「税務署の役人」に化けてしまった。なるほどこれは怖い!学校内でのハロ―インのパレ―ドで、アンドリュウの胸に着けた「税務署」という大きな札を見て、先生が「これが一番恐ろしい」とおっしゃったそうだ。人の意表を突いたその面白い発想に私も大笑い、アンドリュウも得意そうであったが、最も鼻を高くしたのはその父親であろう。
「アンドリュウの話しでは、クラスの生徒達は誰も、税務、と言う字を知らなかったそうだ、アメリカ人の子供たちは純真と言うのか世間知らずというのか?」とついでに報告。
「漫画なんか読んでいるから、そこからヒントを得たんだろうよ、はははは」
と、地球を半回りする長距離電話の代金を忘れたかの様に、笑い続ける親馬鹿振りであった。
そして、それに輪をかけた様な、お祖父さん馬鹿、お祖母さん馬鹿は孫達のハロ―インの事が面白く、さかんに友人や親戚達に自慢し回っていたのでありました。
        一九九五.十一.十,

大停電

八月十四日午後四時十一分。私は嫁とスーパーマーケットのレジの前に並んでいました。
正確に言えば、アメリカ、ミシガン州デトロイト近郊の住宅区、西ブルームフィルドの商店街。
 あと一人で私の番なので、財布を出して待っていると、突然、音も無く電灯が消えました。台湾ならまだしも、アメリカでの停電は意外。「こんな大きな店でもヒューズが飛ぶ事も有るのね」と、電気の付くのを待ちながら、後ろに並んでいた若いお母さんの抱っこしていた赤ちゃんと遊んでいましたが、暫くしても回復しない電気に、「アメリカの工事屋さんは、立派な車で遠い所から来るのだから、却って遅くて不便ね」等貶して居る中に、買物を諦めて帰る人も出てきました。でも旅行中の私は「この次に」というわけには行きません。市民の生活を大切にするアメリカの事、すぐ直る。とたかをくくって更に待つことしばし。とうとう諦めて「一つだけだから、支払いさせて」と頼むのに、レジが止まって精算できないと腕を拱いている会計。「一体アメリカ人って言うのは、筆算も出来ないの?こんな馬鹿店員、いいからよそで買いますよ」と憤然と店を出ました。
 見ると、どの店からも人が出て来ていて、なんと、ここ等辺一体の停電らしいと判明。クーラーの止った店内の暑さに、店の前で腕を拱いている店員達。停車場もがら空きになっていました。道路では既に警察か、軍隊らしいのが、止ったトラフイックライトに代わって交通整理。車の中のラジオで、どうも、もっとすごい広範囲の停電らしいと察して、家に知らせようとしたら、ケイタイも応答無し。これは近くの電波発射台も動けないのに違いない。と、この時になって、心配し始めた私達。道に溢れる車の列を避けて回り道し、急いで帰りました。
 家では長男が、パソコンがスゥーと消えたり付いたりを繰り返したので、故障を防いで消し、主人と孫は、突然切れたテレビに、手持ち無沙汰で電気の来るのを待っていて、誰もがこれがあの大停電の始まりとは思ってもいませんでした。
 飛びこんできた私達の知らせで事態の大変さを知ったものの、電気がないと言う事は、何一つ出来ないと言う事なのです。殊にアメリカでは。
 テレビなし、パソコンなし、電話も此方は電線を利用しているので電話もなし。何処からも消息が得られず、僅かに車の中のラジオでの消息も、声が途切れ途切れ。辛うじて通じた孫娘のケイタイで電力関係の人から得た消息では、カナダも入れた北米一帯の大停電で、原因不明。修復のめどはついておらず、長期に亙るとの事。電気がないので飛行場も閉鎖、すべての離着陸予定の航空機は近くの飛行場を利用するようにと指示されています。主人は数日後の国際会議に行けなくなるかもと心配し始めました。「大丈夫よ」と答えながら、実は私も、どうしてこんな事がアメリカに、という思いでした。
 ラジオからは「これはテロではない」との、ブッシュ大統領の宣言。二年前の九月十一日のあの大惨事から、もうすぐ二周年目を迎え様としているこの頃の、飛行場での安全検査の厳しさ、ニュースによるイラクでの惨状、などから、誰でもすぐ思いつくのはテロ?という事です。政府としてはいち早くテロ否定の宣言を出すべきなのでしょう。それを信じる事にして,ただの故障だとしたら、世界に冠たる超現代科学国家のアメリカさんも、こんなへまをする時も有ると言う事。子供等がここに住んでいるとは言え、所詮私はよその国の人間。野次馬までは行かなくても、こんなへま、一寸皮肉っても見たくなります。
 ミシガン州は、普通この時期はとても涼しいのですが、その日は、例年にない暑さ、近年来の最高気温でした。エヤコンが止った室内は台湾並み。日頃湿りっけが強くて敬遠している地下室の、ひんやりした冷たさが、今日は却って一番快適な場所です。長男の勧めで「まるで防空壕に避難するみたいね」と其処に降りました。地下室と言っても、この家は土地の斜面に建っているので、一階の玄関からでは地下室でも、裏では地階、庭に面した壁一面のガラス戸からの光線が結構明るく役だっています。台所では、まだ日のある中にと、嫁が夕食の仕度を急いでいる様子。幸いな事に、ここでは最近煮炊き用の火をガスにして居たのでした。
 長男と、地下室のドァから、裏庭に出てみました。刈ったばかりの芝から上る青草の香り。二本のりんごの大木からは、多く成りすぎて枝に付かないりんごが、青く小さいまま一面に落ち転がっています。傍らが少し欠けているのは、栗鼠が試食して捨てて行ったのでしょう。栗鼠も食べない不味いりんごに、傾きかけた晩夏の夕陽が優し                                     く当っていました。庭の中ほどの一叢の潅木には、満開の橙色の小花、こちらの花に潜り込んでは又次の花にと、蜜を求めて蜂が盛んに飛びまわっています。飼い犬のロッコが私達を見つけて駆け出てきたので、さっきから叢に蹲って私達の様子をうかがっていた野兔が、急ぐ様子も無くゆっくりと彼方に移っていきました。潅木の茂みの隙間は、毎朝りんごを食べに来ている、子連れ野鹿の通り道、時には川縁に、蛙を目当てのコウノトリが立つこともある奥の小さな流れ。車の騒音も、遠くから聞えていた工事の音も、飛行機の爆音も、皆消えている空に、塒に帰る小鳥の声が楽しそうです。静かな平穏無事な裏庭。停電騒ぎはここにはありません。電気なんて、彼らには関係のないこと、突然襲った大きな不便、不安に気もそぞろの人間達をよそに、自由に空を飛び、野に遊び、何時もの生活の営みを続けている自然界の生き物達。万物の長と威張っている人類より、実は彼等の方がずっと強いのかも?と考えさせられました。
 突如静寂を破って救急車のサイレン。救急車だけは、動くのです。唯一使えるバッテリー式のラジオから、ガソリンスタンドが動けなくて大勢の人が車を使えなくなっている。との報道。頭をよぎるのは、止った電車に閉じ込められている民衆の姿。真っ暗な地下道。つい最近見た、デトロイトの貧民街の悲惨な生活、あの中に住む、職を失っている黒人達のこと。彼等がこの停電の不便さに乗じて、何時暴動を起こしても不思議ではありません。
「ラジオはバッテリーを節約してニュース以外は開けない様に」「車に残っているガソリンも非常用に残して、なるべく車を出さないこと」「冷蔵庫もなるだけ開け閉めしない」等などを家族に指示していた長男が、ゴム管に向かって、ふうふう吹き出しました。見ると、熱帯魚の水槽に息を吹き込んでいます。これぞまさに「人工呼吸」。停電で空気を貰えなくなった魚達の動きが、既にのろのろとしていました。
 暗くなったダイニングルームよりはと、今夜は蝋燭を付けてベランダでキャンドルディナー。何時もより皿数が多いのは、氷の溶けかけた冷蔵庫内の、ストック食品の処理でした。解け始めて、食べ頃に柔らかくなったアイスクリーム。ふにゃふにゃのケーキ、ダイエット計画は休んで、今夜は皆のお腹が冷蔵庫代りでした。
 何時まで続くか知れない停電。それならそれを逆手にとって楽しもう。と、食後はキャンドルパーティ。事毎にすぐキャンドルでムードを出したがる西洋の生活に、何は無くとも蝋燭だけは事欠きません。丸いの、四角いの、長いの、細いの、水に浮かべたのまでも集めたら、結構好いムードになりました。明かりを求めて自然に集った家族達。何度聞かせられたか知れない年寄りの昔話も種が尽きると、孫がバヨリンを持ち出しました。最近練習したと言うアイリッシュの歌。ピアノ伴奏は孫娘、長男もギターで合わせます。つい何年か前までは、キィキィと鳥肌の立つような音だった孫のバヨリンは、今では高校のオーケストラのファーストバヨニストに成っているというだけあって、音痴の私が結構楽しくなる演奏ぶりでした。まだ時間は宵の口、何時もなら友達を尋ねて、とっくに飛び出ている孫達、食後はパソコンの前に固定されている長男、大リーグに目が離せなくてテレビに吸い付いている主人、停電でなかったら、こうして家族全員が一室に集って一夜を語り合い、歌い興じることが有るでしょうか。何やら知れず、はしゃいで、誰彼にと無く甘えかけている飼い犬のロッコ、台湾土産に持ってきたという竹団扇をゆっくりと扇ぎ、私はソファに長々と寝そべって、この幸せな時間を感謝していました。
 天井から下がっている電灯の、電気の付いていない真っ白な電球、これ一つだけで何十ワットなのを、電気のあった時には特に明るいとも感じなかったのに、今卓上にある六個のキャンドル、ワットにして僅かに六ワットがこんなにも明るく感じられる、人間の感覚の面白さね。と孫達に言いましたが、私の気持ちをどれだけ理解できたか、下手な英語交じりの台湾語と、下手な台湾語を無理に使っている英語族の孫達。血の繋がりは争えなく、結構親しんでくれている孫達では有るけれど、普通の会話から一寸踏み込んだ事を話すには、いつももどかしさが先立ちます。
 蝋燭では危ないからと渡された懐中電灯で寝室に入ると、床の上にくっきりと窓の形をした意外な明り。中空に掛かった月からのプレゼントでした。ブラインドを高く巻き上げ、思いっきり多くの月明かりを取り入れる私。黄いろく、青く輝く光、空を見上げれば、辺りを明るく照らして、吃驚するほど近く大きな月。思いがけない月明かりに驚いて詩を読んだ古人、月を相手に酔って踊った昔の人、月の下のシエックスピァの妖精達。詩も歌も出ない私は、幼い頃、十五夜に母と月を愛でた事などを思い出していました。気が着けば、外では虫達の大合唱。リンリンと、美しい音色は鈴虫なのでしようか、クーラーで閉ざされいた部屋の外で、毎夜繰り返されていた自然の美。停電がくれた、北国の晩夏の夜のロマンでした。
 ロマンチックな想いに酔っているのは、責任の無いお婆だけ。長男夫婦は停電との対応に大変です。何度も寝室に顔を出して、私達の様子を気遣ってくれる長男夫婦には、折角台湾の夏を避けて涼みに来たのに、との文句も言えません。朝になれば、どんどん解ける冷蔵庫の食品の始末、お腹に入れる食べ物と、だめになったゴミ箱行きの食べ物をいち早くえり分けて処分、朝食の分はなんとか間に合わし、昼食はとうとう缶詰食品とインスタントヌードルになりました。スーパーも閉っているし、夕食はどうしよう。慈雨のようにタイミング良く降ってくれた昼過ぎの大雨で、今夜の暑さはなんとか我慢できそうだし、明りもキャンドルの在庫は充分だが、食べ物は民生問題、戦時中でも、芋の葉っぱくらいはあったのに、これでは籠城以上です。
 あれこれ思案の最中に、突然パッと電気がつきました。「ついたぁーっ」と孫娘の悲鳴のような叫び声。家中が思わず拍手していました。ダイニングに集った家族、明るい明るい電灯の下で「エジソンって、本当に偉い人ねえ」と感嘆する私。すぐテレビがつけられ、エヤコンが策動、でも問題はまだありました。
 二十九時間の停電中に、地域の家庭用水の大タンクでも、水を押し上げるポンプが止っていて、大タンクの水が底を着いていたのでした。嫁がせっせと生ぬるくなった冷蔵庫の中を洗っていると「少なくなりすぎたタンクの水の中に、バクテリヤが入っている怖れがあるから、水は嗽水までも5分以上沸騰させてから使用するように」とのラジオ放送。だんだん細くなる水、食用水の確保に又主婦が忙しくなりました。すぐに二階のシャワーも、水洗便所も使えなくなり、残りは地下室のシャワーだけ。それも細々の水で石鹸が流されず、粘々したままの肌の気持ちの悪い事。たった一つだけ使える地下室のトイレも、水槽が一杯になるのに時間が掛かって、だから「小の方は毎回流さないで、蓋をしたら臭くないから」というのは、戦中の我慢生活を経てきたおばあちゃんにだけ通じる話しで、孫達は目をむいていました。困惑の二.三日。やっと水が正常に戻って、水洗からサ―ッと水の流れる大きな音が聞えた時の嬉しさ、あの聞きなれた音は、どの音楽よりも心の癒される音でした。物は無くなってこそ有り難さが解る。「何時までもあると思うな親と金」の諺に「電気」も付け足さねばなりません。
 数日後、「この度、我々はアメリカに十憶ドルもの損害を与えたが、自分等が使ったのはたったの七千ドルだった」という、アルカイダ組織からの犯行声明がありました。遅すぎる犯行声明と、ブッシュの早過ぎるテロ否定声明と、どっちの信憑性を重んじるかは、各自の勝手です。
 後日、数日に亙ったこの、6萬1800メガワットの大停電の報道があり、全国で5000萬人、ミシガン州だけでも200万人が被害を蒙ったとありました。又、家に帰れなくて、ホテルに泊まろうにも、安全の保障が出来ないからと拒絶されて、止む無く路上でごろ寝するニューヨーク市民、マンハッタンの長い鉄橋を、遠い我が家目指して黙々と歩く人達、電気が付いたら一番にガソリンを入れられるようにと、夜もガソリンスタンドに置かれっぱなしの車の、長蛇の列、止ってしまったエレベーターの中に、十八時間も閉じ込められた中年婦人、等など、市民の困惑振りが報道されていました。確かにこの大停電は、アメリカに大きな損害を与えましたが、その反面では、今回の停電期間中、カナダ、ニューヨーク、ミシガンなどの広範囲に起こったにもかかわらず、全区域に渡って(ニュヨーク、デトロイトのスラム街にですら)一件の暴動も起こらず、却ってお互いに助け合う美談が幾つも生まれていた。とも言っていました。テレビには、自動発電のある店の前に集った民衆が、持ち前のユーモァを発揮して、楽しそうにギターを弾き、ダンスを始めている光景も有りました。白人、黒人、中東の人、アジヤ人、突然襲い掛かった大災難の前には、種族、貧富、文化の隔たりはなく、皆一団となってこの大災難にめげずに、笑って過そう。そう言ったメッセージが私には受け止められ、それは胸に染みる美しい光景でした。犯罪都市として有名なデトロイト市の黒人市長は、「大停電中、デトロイト市での犯罪記録はゼロであった事を誇らしく思う」と、テレビで言っていましたが、1965年と1977年にもこれに似た大停電があり、当時のニュヨークでは大暴動が起こっていたのでした。
 この大停電によって、アメリカの一般民衆の、一旦緩急の場合に対しての態度の良さ、引いては文化水準が高められていた事が、期せずして世に示されたこと、そして更に、これが自分達の日頃の不備、(送電網の老朽?)などが改善がされるきっかけになるのであれば、この停電はアメリカにとって損ばかりでもなかったでしよう。
そして、旅行者にとっても―――。何はともあれ、旅行中の私達まで停電の不便に撒きこまれるのは、二度とご免ですから。    二〇〇三年九月八日

プールサイドで

今年の夏、私は三週間ばかりテキサスの長女の所に居ました。テキサスの夏の暑さは格別でしたが、私はそこで毎日裏庭のプールで水遊びをしていたのです。
水の中で歩くと膝の運動になると言われているので、プールに入るのも、実は今度の旅行の目的の一つでした。
私は、プールはここのにしか入りません。よそのプールは衛生が信用できないし、この体形を衆人環視の中に晒す勇気もありません。孫達は、「安心よ、おばあちゃんよりずっと肥って見っとも無い年寄りでも、平気で入っているから」とへんな慰め方をしてくれますが。其の孫達にも私は見られたくなく、以前来た時には、孫達の、学校に行っている時間を見計らってプールに入っていました。あれから何年たったのでしようか、孫達は皆大学に進学して他所に居るので、今年は誰にも気兼ねなく水着姿になれました。プールの淵に沿って植えられた潅木が、水に影を落としていて、其処なら涼しいのです。
プールに入るのは何年振りでしょうか。昼近くの日差しに暖められた水はそんなに冷たくなく、足をそろりそろりと差し入れ、腰、胸、と体を沈めて、首まで入った時の快感。そろりそろりとプールの縁を掴みながら木陰に向かって歩く私をかばって、長女が浮き板を持って水に入って来ました。金槌の私には浮き板が必要なのです。以前来た時、浮き板を取り落として水の中に沈没した事がありました。あわてて、体が逆様になっているのも知らず、必死になって足をめったやたらに蹴ったのですが、当然の事に足が底に付く筈がなく、幸い直ぐ傍に居た長女が引っ張り上げてくれて命拾い。立ち上がってみたら、実は胸ほどの深さの所で溺れかけていた訳で、面目も無かったけど、確かに怖い思いでした。それもあるし、膝もずっと弱っても居るので、この危なっかしい母親を一人で水に入れてはいけない。と言うのが、子供達の約束だったようです。すらりと形良く痩せている長女の水着姿はとても美しく、こんなに綺麗なのに一人ぼっちになって、と不憫な気持ちが心を過ぎります。
でもそれはそれで、私は気に入った水遊びに毎日熱中していました。水の中での足の体操。バレーのように足が自在に動いてくれます。其のうちに水に慣れて怖く無くなり、浮き板を使ってプールの端から端まで泳ぎの真似事をしたら、見物に来ていた次女が 「マミ凄い、太平洋横断だ」 と囃し立て、プールサイドで小説を読んでいた主人まで水の中に引き入られてしまいました。
毎日そうして二時間ばかり遊んでいましたが、水の中に長い事浸かっていると、水の浮力に慣れて、上がる時、体がとても重く感じられます。それも水遊びの経験の少ない私には面白い発見だったので、ある日、長男との電話で、その嬉しさを話しました。そしたら彼答えて曰く「河馬がどうして何時も水の中に居たがるのか解るでしょう」そして続けて「こんな例えは一寸マミには悪かったかな?エヘェへェ」ですって。何も母親が肥って居るったって、河馬はないでしょう。憤慨して主人に話したら、彼、物凄く喜んでしまって、それからは私の事を河馬と呼ぶのです。浮き板を抱いてバシャバシャして楽しんでいる私の前に泳いできて、
「河馬 河馬 河馬ちゃん 河馬姑娘 チャカチャカチャンチャン 河馬おばさん」
と囃し立てます。でも、こっちは足の付かない深さに居て浮き板から手を離せず、反撃の仕様がありません。
そっと、誰も見ていない鏡の前に立ってみました。テキサスの真夏の太陽に、毎日一.二時間も晒された肌は、浜の漁師さんもかくやとばかりの赤銅色、娘の家で毎日することも無く、ごろごろしているので、またまた増えた体重とこの体形。なるほど河馬と言われるのもむべなるかなと、秘かに長男の形容を感心してはいるのですが、主人にこうからかわれては頭に来ます。ですから、陸に上がってから主人を「痩せ猿っ」と言い返すのですが、どうもこっちに勝ち目は無さそう。
更にいけないのは、水辺の薮蚊。台湾に戻る前の日の午後、お別れにもう一度プールに入ったのです。「午後は蚊が居るから」と言う娘の忠告をすっかり忘れていました。涼しいと喜んで入った潅木の蔭に潜んでいた、物凄い薮蚊の大群。アメリカの蚊はとても大きく、まるで蠅の様な大きな羽音をさせて、その執拗な事。急いで木陰から日向に出てきても、飢え切っているのか、ずっと付いてきます。浮き板は命板ですので手を離せず、やっと背の立つ場所まで来てから払い除けましたが後の祭り、既に顔中を刺しに刺されていました。「言ったじゃないの」と薬を付けてくれながら言う娘達の傍で、さすがに主人も一言もありませんでした。
赤くはれ上がったのが顔や額際に羅列して、台湾に戻っても凸凹顔は暫く消えず、とんだアメリカ土産でした。
更にもう一つ。
河馬ではないけど、私は本当に水に浸かって遊ぶのが好きになってしまって、何時までも上がりたくありません。それにストップを掛けるのが体の内側から来る生理的要求。つまり、おトイレです。プールの横には、別棟になってピンポンルーム、バーベーキュープレース、更衣室、と並んでトイレもあるのですが、婿も亡くなり、子供達もそれぞれの大学に行ってしまっているこの家、トイレは時折来る庭師達が使っているだけで、埃だらけ。面倒でも私は母屋に入って自室のトイレを使う事にしていました。その日もそれでプールから上がったら、一緒に居た次女が「誰も見ていないから、そこらの芝生で用を足せば? 私が庇ってかばってあげるから」と言うのです。「駄目よ。いくら誰も見ていないからって、そんな事できません」と言う私に次女曰く「大丈夫よ。エマだってそうしていても大丈夫なんだから」。エマとはここの飼い犬の名で、家族同様の大型ポインターです!!!!!!! とうとう母親は河馬ではなくて犬と同格にされました。しかし「エマだってそうしていても大丈夫なんだから」とはちょっとおかしい、と聞きただしました。正解は エマは何時でも芝生の上におしっこしているけど、芝生はその為に枯れてしまう事がなかったから、マミのも「大丈夫」芝生に取っては無害。だと言うことでした。この娘は食物の農薬にとても神経質で、私の数少ない英語の単語の中に、「オーガニック(無農薬)」と言う言葉が入っているのも、毎日彼女から聞かされているからです。食物転じて植物の農薬にも関心を持っている彼女、何はともあれ芝生への被害?が真っ先に頭にきたのでしよう。
河馬にされ、犬と同格になり、芝生にも遠慮しなければならない母親。一体私の子供等は母親を何と思っているのでしようね。でもこの事は主人には言いませんでしたよ。又何を言われるか知れませんものね。前車の轍は踏まぬ事です。
アメリカでの休日の報告でした。  心心より 2005年10月4日

名前(心心と言う名前)

 配達されてきた郵便物に、「あて所に尋ねあたりません」と付箋が張られた封書が入っていました。
 戻って来た封書の宛先の中野陽子さんは、最近、六十年振りに逢った小学校時代の同窓生です。
六十年、半世紀以上も前の同窓は、一足飛びに老人に変わっていて、始めは初対面のような恥じらいも有ったのですが、そのうちに見覚えの有る以前の顔が見えてきて、陽子さんも入れた数人の老同窓生達は、隔たれていた歳月を取り戻し、楽しいお喋りに時の過ぎるのも忘れていました。
 今は「一昨さん」になっている中野さんは、その時の話の中で「台湾に居た頃、李淑徳と言う方と仲良しで一緒にバイオリンを習いに行っていた。懐かしい」と言っていました。あの有名な音楽の教授なら妹がよくお付き合いしているから、お伝えしましよう、と言って台湾に戻った私が、事後報告を出したのがその手紙です。
 住所は間違っていないし、一体どうしたのか、お互いこの歳だから、若しや?と思ったりしているうちに、だんだん心配が昂じて、その日の集りを計画してくださった幹事の方にメールしました。
「どうしたのでしよう。若し住所の変更でもありましたらお知らせ下さい」
というのに折り返し来た返事は
「中野さん(一作さんの事)とても元気でしたからご安心ください。住所の変更はないとの事です。あなた
 はまさか、中野陽子と書いたのではないでしようね。それなら届きません」
「あっ、一昨さんを旧姓で呼んでいたのだった」
と私はその時始めて気がついたのでした。
 日本では、大抵の女性が結婚すると夫の姓に変わり、養子縁組以外の、既婚の女性を旧姓で呼ぶのは失礼にもなるとは聞き知っていましたが、問題は中野さんとの約束。あの時手許にペンは無かったし、物忘れの酷い此の頃のことだからと、「中野さんと李淑徳さん」「中野さんと李淑徳さん」と、馬鹿の様に何度も繰り返してしっかり頭に叩き込んでいたのが、封筒の表書きの時に出てきて、一作さんが中野さんになったのでした。
「正にお察しの通り、宛名を中野陽子と書いていました。貴方からのお指摘があるまでは全然思いつきもしていませんでした」と平身低頭の私。
台湾と日本の習慣の違いでした。
折り返し来た返事には「会話の時には旧姓で呼んでも、親しい間なら問題ありませんが、日本の郵便局には通用しません。日本では結婚する時、どちらかの姓を名乗るかを決めて届けるのだが、別々の姓を名乗る事はできず、現在、別別の姓でも良いではないかと論議が起り、国会でも議案に上りかけたが、可決されなかった。然し、将来はご夫人が旧姓を名乗る事が出きるようになるでしよう。」と説明までついた上に、台湾でも普通の人は結婚前と後では名前が変わっているのに、私の名前だけが変わっていないの少し不思議に思っている。とも付け加えられていました。
 台湾では、結婚後は「冠夫姓」と言って、元来の姓の上に婚家の姓を附けるのが一般の習慣です。例えば私は、主人の姓の「葉」を附けて「葉劉心心」となるのですが、「冠夫姓」をせずに元来の姓のままで通す事も出来ます。私は親から貰った名前を変えるのがいやで、ずっと「劉心心」で通して来ました。ですからお役所の届けも、保険も、勿論郵便も、私宛のは「劉心心」で届きます。ちなみに此方では、お勤めしている女性は、既婚、未婚に関らず、職場では押しなべて娘時代の姓で呼ばれます。つまり、若かろうが、婆さんであろうが、私なら職場では「ミス劉」であり、「劉小姐」なのです。(小姐―シャウチェ―はお嬢さんと言う意味で未婚女性の呼称)。手紙の宛名の場合も名前の後に「小姐」と付けますが、既婚女性の場合には「女士」と付けます。これは日本での「様」に当る、女性の敬称ですが、独身主義の女性の多い此の頃、結婚適齢期を過ぎて、子供の二三人も居そうに、くたびれた格好をしているからと、うっかり「女士」と付けたら怒られますから、私は、よく知らない場合には全部「小姐」にして出しています。(男性の「様」はおしなべて「先生」です)
 習慣の違いといえば、アメリカでも結婚すると女性は夫の姓に変わります。
1950年代に主人がアメリカに留学していた頃、今のように夫婦同伴で出国することも出来ない時代で、会いにも行けず、電話はとても高くておいそれとは掛けられずで、通信は専ら手紙だけでした。
「私の名前だけが変わっていないの少し不思議に思っている」と幹事さんが思っていたのだとすると、当時、アメリカの習慣を知らずに、劉姓のままで出していた私の手紙も、ワイフからのだとは思われていなかったかも?それにしても幹事さん、まさか私を主人のガールフレンドとでも思っていたのかしら?
 こう言った誤解は、私が自分の姓を通したいと主張したためでしたが、ちなみに私は「劉氏心心」と呼ばれるのも嫌い、小学校時代に既に先生に「劉心心」と直してもらっていました。昭和の始め頃の台湾の刊物に、「以前の女性には名が無く、ただ劉氏の長女とか、陳氏の次女とだけ言っていた。女性に氏をつけるのはそこからきている」と大変女性を馬鹿にした乱暴な言論が出て居ましたが、一説には、日本の領台初期に、台湾人の名に慣れないお役人さんが、男女の姓をわかりやすくする為に女性に「氏」をつけたと言うのも有ります。
 小学校時代の私にそんな事が解っていた筈はありませんが、何故日本の友達には姓と名の間に「氏」が付かず、私だけが「劉氏」なのかと。幼心に反発と屈辱を感じていたのでした。現在では、昔の世代の老人が氏を着けた名前をそのまま使っている以外は、もう皆「氏」を付けていません。ただ、女性が亡くなった時の告別式には、故人の名に「氏」をつけます。これは、大家族が一つの家に住んでいた時代、家庭内の女性達、つまり、複数の息子の嫁達や、妾達(当時は妾が多いのを男の甲斐性としていたし、大抵一つ屋根の下に同居していました)を識別するのに使われた封建社会の名残りではないかと思います。例えば私の母の、告別式での名は「劉媽林太夫人」となりました。旧姓が林ですので、婚家の劉と合わせて、「林家出身の劉夫人」となった訳です。こういう呼び方は、現在では故人の里方を尊重した呼び名として使われているようですが、一種の戒名のようなもので、告別式にのみ使われ、間違っても生きている人には使えません。
 台湾人の名前については、戦時中に改姓名と言うことがありました。当時の日本政府の、台湾人に対する「皇民化政策」の一環です。家庭内で国語(当時は日本語)を話している家庭、「国語家庭」と一緒に奨励され、多くの家庭が先祖代々の姓を日本の姓に変えていました。それでも林姓は「小林」「大林」「中林」陳姓は、中国の頴川に有った祖先の有名な故事を記念して「頴川エガワ」などと、祖先の名を残す様にした姓が多かったようです。
 私の名前でこんな事もありました。
私の名の「心心」は、父方の伯父が名付け親で、「父親と母親二人分の愛情のこもった子供」と言う意味で、心、心、と心が二つのなのです。
    ――主人に言わせると「夫に対して二心ありの名」だと言う事ですが、これは彼の勝手な解釈――。
 世界中どこでも同じだと思いますが、一般に、赤ちゃんの名前には、その子の幸福を願う気持ちを入れて付けられます。台湾でも、大抵の人は美しい名ですが、中に、親の希望をそのまま名前にするのも少なくありません。男の子を願っていたのに女の子ばかり何人も続いて産まれた家では、次は弟を招き入れてくれるようにと、「招弟」と名付け、次に産まれたのも又女児なら今度は「好仔」(もう結構と言う意味)、その次も又女児なら「満恵」。恵は女の子の名としてよく使われる字で、「女の子は満ち溢れています」と言う意味、それでも又女の子なら、「冏市」(台湾語の同音で、仕方がないから育てると言う意味)。これはまだ良い方で、都会にはあまり見られませんが、一昔前頃の地方では、易者に運が悪いと言われた嬰児が、厄避けの意味で「乞食」「豚糞」「牛糞」「却(台湾語の拾うと同音で捨て子の意味)」など、最も人の嫌がる名前を付けられているのが、珍しく有りませんでした。
 196〇年代の或る日、私宛てにお役所から
「この度、政府の徳政により、特定の人に対してのみ名前の変更を許可する事になった。ついては、あんた
 の名前は聞こえが悪いから、何月某日までに区役所に名前変更の申請に来るように」
と言う通知が来ました。ご丁寧に例として前述の迷信的な名前が列挙されていて、私の「心心」が、「乞食」「豚糞」「牛糞」と同列になつていたのです。
戦時中の改姓名にも応じなかった当時38歳の私。
「長年一緒に過してきたこの名前、絶対に変える気持ちはありません」
と抗議に行きましたが、これは政府(当時は蒋介石政権)の「徳政」による御恵みだから、と相手にされません。台湾が彼らに不法占領されたばかりに、ろくに学が無くても役人に成り上がる事が出来た、中国からの難民。この輩の無知と思い上がりの公文書に、怒ったのは私よりも「心心」の夫でした。彼は怒った勢いで直ちに役所に
「一体あんた達は、この名付け親がどんなに学門のある方か知っているのか」
と怒鳴り込み、お蔭で私の「劉心心」が助かった次第です。
再びメールの主から
「名前が変えられなくて好かった。あなたの名前が変わったらどんな名前になっていたでしよう」
と来ました。人の話を引出すのが上手な彼です。
 高飛車に命令されると絶対に服従したくなくなる私ですが、実は私には(宜恵)という名前がもう一つあるのです。(よしえ)ではなく、(ぎぃふい)と台湾語読みです。
 東京で女児が生まれたと知って、台湾に居る伯父が、早速「心心」と名づけ、留学中の父も間もなく卒業して台湾に戻ることだし、と、本籍地の嘉義で出生届を出してしまいました。所がそれとは知らず、東京にいた私の両親は産まれた赤ん坊を歓迎して、よくぞ恵まれてくれたと言う意味で「宜恵」と名づけて、「恵」だけを取って呼んでいました。それで爾来、私は外では「心心」ですが、家庭内では「恵」なのです。
 赤ん坊の「宜恵」は両親の寵愛を一心に受けましたが、それにもかかわらず、ひ弱で瘠せて、目がぎょろぎょろして、黒く、実に見っとも無い赤ん坊だったそうです。
よっぽど可愛げのないベビーだったらしく、生後間もなく台湾に連れて帰られたこの、お猿さんのような赤ん坊を見て、
「自分だったらこんな醜い赤ん坊、台湾にまで連れかえらずに、内台航路の船の中においてくる」
と、口の悪い父の友人が言っていたと聞かされました。
さて、この醜い赤ん坊も成人して婚約をしたのですが、私達はただ一度の簡単な見合いだけで、付き合いもせず、父が決めての婚約でした。
 婚約は、実に初対面から三日目。仲人は主人の叔父で、父の東京時代からの親友。当時高雄高等商業学校の校長先生をしていらした、非常に誠実な方です。父はこの親友を全面的に信頼していましたので、帰台後十数年も会わなかったにもかかわらず、この親友の「間違いの無い青年」と言う一言で娘の婚約者を決めたのでした。
 台湾の旧習では、婚約は二回に分けて挙行されます。一回目は結婚承諾の意味の、ごく内輪の儀式。二回目は親戚友人を招待しての大々的な婚約披露。そして最後が結婚式です。その一回目の儀式の後、大任を終えて夜汽車で高雄に帰る仲人ご夫妻を見送っていた彼が、突然発車間際の窓際に駆け寄って何か聞いていました。大笑いする叔母さん。彼は婚約者の名前を聞きただしていたのでした。確か相手は「心心」という娘だったのに、名前が違う、と言うわけ。私も父母と共に見送りに来ていたのですが、その時の、親子の対話では私は「恵」だったのです。初対面から婚約まで、全然逢っていないのですから無理もありません。一方主人の名の「英堃」もあまり使われない古字で、私の家では当時誰もその字の読みを知らず、それで私達も彼の名を何と呼ぶのか知りませんでした。
 又、当時は名ばかりでなく顔もよく覚えていませんでした。たった一度の短い見合いでは顔など覚えられず、私が覚えていたのは彼の眼鏡だけ。「大きな眼鏡で、まるで水牛に踏み潰された蛙みたい」が、私の、彼から受けた第一印象。彼のは「なんて目ばかり大きくて色が黒い娘だろう」でした。しかもその後、彼は、ずっとなしの礫。心配した母が私に電話をかけさせました。ですから数日後の初デートでは、どんな人だったか、自分の記憶に自信がなくて、約束の大学病院のロビーに母に付き添ってもらい、若い人が入って来るたびに二人で首を伸ばして「この人?違うみたいね?」と探していました。
 顔も名も知らない相手と、親の言いつけのままに婚約する。そう言う時代だったのです。
 心心と言う名はよほど珍しいのか、世に「心心」と言う名があるのがどうしても解せない戸籍係の若い女の子に、「新新」でも「星星シンシン」「欣欣シンシン」(中国語での発音)でもないと説明するのに苦労したり、紛失届けに行った先で若い係り員に、「わあー ロマンチックな名だ。もう少し若かったらデートを申しこむんだったのに」と言われて怒ったり、アメリカの、重刑犯を収用するので有名な刑務所がシンシン監獄と言う名かと思うと、温泉街のラブホテルの名が「心心」だったり、心心と言う名がこんなに多様なハプニングを起すとは、名付け親の伯父も、思いも依らなかった事でしょう。
宛名の書き違いが、思わぬ思い出を引出して、又長いお喋りになりました。もう筆を置きます。
心心 二〇〇三年三月二十九日