Saturday, December 24, 2005

名前(心心と言う名前)

 配達されてきた郵便物に、「あて所に尋ねあたりません」と付箋が張られた封書が入っていました。
 戻って来た封書の宛先の中野陽子さんは、最近、六十年振りに逢った小学校時代の同窓生です。
六十年、半世紀以上も前の同窓は、一足飛びに老人に変わっていて、始めは初対面のような恥じらいも有ったのですが、そのうちに見覚えの有る以前の顔が見えてきて、陽子さんも入れた数人の老同窓生達は、隔たれていた歳月を取り戻し、楽しいお喋りに時の過ぎるのも忘れていました。
 今は「一昨さん」になっている中野さんは、その時の話の中で「台湾に居た頃、李淑徳と言う方と仲良しで一緒にバイオリンを習いに行っていた。懐かしい」と言っていました。あの有名な音楽の教授なら妹がよくお付き合いしているから、お伝えしましよう、と言って台湾に戻った私が、事後報告を出したのがその手紙です。
 住所は間違っていないし、一体どうしたのか、お互いこの歳だから、若しや?と思ったりしているうちに、だんだん心配が昂じて、その日の集りを計画してくださった幹事の方にメールしました。
「どうしたのでしよう。若し住所の変更でもありましたらお知らせ下さい」
というのに折り返し来た返事は
「中野さん(一作さんの事)とても元気でしたからご安心ください。住所の変更はないとの事です。あなた
 はまさか、中野陽子と書いたのではないでしようね。それなら届きません」
「あっ、一昨さんを旧姓で呼んでいたのだった」
と私はその時始めて気がついたのでした。
 日本では、大抵の女性が結婚すると夫の姓に変わり、養子縁組以外の、既婚の女性を旧姓で呼ぶのは失礼にもなるとは聞き知っていましたが、問題は中野さんとの約束。あの時手許にペンは無かったし、物忘れの酷い此の頃のことだからと、「中野さんと李淑徳さん」「中野さんと李淑徳さん」と、馬鹿の様に何度も繰り返してしっかり頭に叩き込んでいたのが、封筒の表書きの時に出てきて、一作さんが中野さんになったのでした。
「正にお察しの通り、宛名を中野陽子と書いていました。貴方からのお指摘があるまでは全然思いつきもしていませんでした」と平身低頭の私。
台湾と日本の習慣の違いでした。
折り返し来た返事には「会話の時には旧姓で呼んでも、親しい間なら問題ありませんが、日本の郵便局には通用しません。日本では結婚する時、どちらかの姓を名乗るかを決めて届けるのだが、別々の姓を名乗る事はできず、現在、別別の姓でも良いではないかと論議が起り、国会でも議案に上りかけたが、可決されなかった。然し、将来はご夫人が旧姓を名乗る事が出きるようになるでしよう。」と説明までついた上に、台湾でも普通の人は結婚前と後では名前が変わっているのに、私の名前だけが変わっていないの少し不思議に思っている。とも付け加えられていました。
 台湾では、結婚後は「冠夫姓」と言って、元来の姓の上に婚家の姓を附けるのが一般の習慣です。例えば私は、主人の姓の「葉」を附けて「葉劉心心」となるのですが、「冠夫姓」をせずに元来の姓のままで通す事も出来ます。私は親から貰った名前を変えるのがいやで、ずっと「劉心心」で通して来ました。ですからお役所の届けも、保険も、勿論郵便も、私宛のは「劉心心」で届きます。ちなみに此方では、お勤めしている女性は、既婚、未婚に関らず、職場では押しなべて娘時代の姓で呼ばれます。つまり、若かろうが、婆さんであろうが、私なら職場では「ミス劉」であり、「劉小姐」なのです。(小姐―シャウチェ―はお嬢さんと言う意味で未婚女性の呼称)。手紙の宛名の場合も名前の後に「小姐」と付けますが、既婚女性の場合には「女士」と付けます。これは日本での「様」に当る、女性の敬称ですが、独身主義の女性の多い此の頃、結婚適齢期を過ぎて、子供の二三人も居そうに、くたびれた格好をしているからと、うっかり「女士」と付けたら怒られますから、私は、よく知らない場合には全部「小姐」にして出しています。(男性の「様」はおしなべて「先生」です)
 習慣の違いといえば、アメリカでも結婚すると女性は夫の姓に変わります。
1950年代に主人がアメリカに留学していた頃、今のように夫婦同伴で出国することも出来ない時代で、会いにも行けず、電話はとても高くておいそれとは掛けられずで、通信は専ら手紙だけでした。
「私の名前だけが変わっていないの少し不思議に思っている」と幹事さんが思っていたのだとすると、当時、アメリカの習慣を知らずに、劉姓のままで出していた私の手紙も、ワイフからのだとは思われていなかったかも?それにしても幹事さん、まさか私を主人のガールフレンドとでも思っていたのかしら?
 こう言った誤解は、私が自分の姓を通したいと主張したためでしたが、ちなみに私は「劉氏心心」と呼ばれるのも嫌い、小学校時代に既に先生に「劉心心」と直してもらっていました。昭和の始め頃の台湾の刊物に、「以前の女性には名が無く、ただ劉氏の長女とか、陳氏の次女とだけ言っていた。女性に氏をつけるのはそこからきている」と大変女性を馬鹿にした乱暴な言論が出て居ましたが、一説には、日本の領台初期に、台湾人の名に慣れないお役人さんが、男女の姓をわかりやすくする為に女性に「氏」をつけたと言うのも有ります。
 小学校時代の私にそんな事が解っていた筈はありませんが、何故日本の友達には姓と名の間に「氏」が付かず、私だけが「劉氏」なのかと。幼心に反発と屈辱を感じていたのでした。現在では、昔の世代の老人が氏を着けた名前をそのまま使っている以外は、もう皆「氏」を付けていません。ただ、女性が亡くなった時の告別式には、故人の名に「氏」をつけます。これは、大家族が一つの家に住んでいた時代、家庭内の女性達、つまり、複数の息子の嫁達や、妾達(当時は妾が多いのを男の甲斐性としていたし、大抵一つ屋根の下に同居していました)を識別するのに使われた封建社会の名残りではないかと思います。例えば私の母の、告別式での名は「劉媽林太夫人」となりました。旧姓が林ですので、婚家の劉と合わせて、「林家出身の劉夫人」となった訳です。こういう呼び方は、現在では故人の里方を尊重した呼び名として使われているようですが、一種の戒名のようなもので、告別式にのみ使われ、間違っても生きている人には使えません。
 台湾人の名前については、戦時中に改姓名と言うことがありました。当時の日本政府の、台湾人に対する「皇民化政策」の一環です。家庭内で国語(当時は日本語)を話している家庭、「国語家庭」と一緒に奨励され、多くの家庭が先祖代々の姓を日本の姓に変えていました。それでも林姓は「小林」「大林」「中林」陳姓は、中国の頴川に有った祖先の有名な故事を記念して「頴川エガワ」などと、祖先の名を残す様にした姓が多かったようです。
 私の名前でこんな事もありました。
私の名の「心心」は、父方の伯父が名付け親で、「父親と母親二人分の愛情のこもった子供」と言う意味で、心、心、と心が二つのなのです。
    ――主人に言わせると「夫に対して二心ありの名」だと言う事ですが、これは彼の勝手な解釈――。
 世界中どこでも同じだと思いますが、一般に、赤ちゃんの名前には、その子の幸福を願う気持ちを入れて付けられます。台湾でも、大抵の人は美しい名ですが、中に、親の希望をそのまま名前にするのも少なくありません。男の子を願っていたのに女の子ばかり何人も続いて産まれた家では、次は弟を招き入れてくれるようにと、「招弟」と名付け、次に産まれたのも又女児なら今度は「好仔」(もう結構と言う意味)、その次も又女児なら「満恵」。恵は女の子の名としてよく使われる字で、「女の子は満ち溢れています」と言う意味、それでも又女の子なら、「冏市」(台湾語の同音で、仕方がないから育てると言う意味)。これはまだ良い方で、都会にはあまり見られませんが、一昔前頃の地方では、易者に運が悪いと言われた嬰児が、厄避けの意味で「乞食」「豚糞」「牛糞」「却(台湾語の拾うと同音で捨て子の意味)」など、最も人の嫌がる名前を付けられているのが、珍しく有りませんでした。
 196〇年代の或る日、私宛てにお役所から
「この度、政府の徳政により、特定の人に対してのみ名前の変更を許可する事になった。ついては、あんた
 の名前は聞こえが悪いから、何月某日までに区役所に名前変更の申請に来るように」
と言う通知が来ました。ご丁寧に例として前述の迷信的な名前が列挙されていて、私の「心心」が、「乞食」「豚糞」「牛糞」と同列になつていたのです。
戦時中の改姓名にも応じなかった当時38歳の私。
「長年一緒に過してきたこの名前、絶対に変える気持ちはありません」
と抗議に行きましたが、これは政府(当時は蒋介石政権)の「徳政」による御恵みだから、と相手にされません。台湾が彼らに不法占領されたばかりに、ろくに学が無くても役人に成り上がる事が出来た、中国からの難民。この輩の無知と思い上がりの公文書に、怒ったのは私よりも「心心」の夫でした。彼は怒った勢いで直ちに役所に
「一体あんた達は、この名付け親がどんなに学門のある方か知っているのか」
と怒鳴り込み、お蔭で私の「劉心心」が助かった次第です。
再びメールの主から
「名前が変えられなくて好かった。あなたの名前が変わったらどんな名前になっていたでしよう」
と来ました。人の話を引出すのが上手な彼です。
 高飛車に命令されると絶対に服従したくなくなる私ですが、実は私には(宜恵)という名前がもう一つあるのです。(よしえ)ではなく、(ぎぃふい)と台湾語読みです。
 東京で女児が生まれたと知って、台湾に居る伯父が、早速「心心」と名づけ、留学中の父も間もなく卒業して台湾に戻ることだし、と、本籍地の嘉義で出生届を出してしまいました。所がそれとは知らず、東京にいた私の両親は産まれた赤ん坊を歓迎して、よくぞ恵まれてくれたと言う意味で「宜恵」と名づけて、「恵」だけを取って呼んでいました。それで爾来、私は外では「心心」ですが、家庭内では「恵」なのです。
 赤ん坊の「宜恵」は両親の寵愛を一心に受けましたが、それにもかかわらず、ひ弱で瘠せて、目がぎょろぎょろして、黒く、実に見っとも無い赤ん坊だったそうです。
よっぽど可愛げのないベビーだったらしく、生後間もなく台湾に連れて帰られたこの、お猿さんのような赤ん坊を見て、
「自分だったらこんな醜い赤ん坊、台湾にまで連れかえらずに、内台航路の船の中においてくる」
と、口の悪い父の友人が言っていたと聞かされました。
さて、この醜い赤ん坊も成人して婚約をしたのですが、私達はただ一度の簡単な見合いだけで、付き合いもせず、父が決めての婚約でした。
 婚約は、実に初対面から三日目。仲人は主人の叔父で、父の東京時代からの親友。当時高雄高等商業学校の校長先生をしていらした、非常に誠実な方です。父はこの親友を全面的に信頼していましたので、帰台後十数年も会わなかったにもかかわらず、この親友の「間違いの無い青年」と言う一言で娘の婚約者を決めたのでした。
 台湾の旧習では、婚約は二回に分けて挙行されます。一回目は結婚承諾の意味の、ごく内輪の儀式。二回目は親戚友人を招待しての大々的な婚約披露。そして最後が結婚式です。その一回目の儀式の後、大任を終えて夜汽車で高雄に帰る仲人ご夫妻を見送っていた彼が、突然発車間際の窓際に駆け寄って何か聞いていました。大笑いする叔母さん。彼は婚約者の名前を聞きただしていたのでした。確か相手は「心心」という娘だったのに、名前が違う、と言うわけ。私も父母と共に見送りに来ていたのですが、その時の、親子の対話では私は「恵」だったのです。初対面から婚約まで、全然逢っていないのですから無理もありません。一方主人の名の「英堃」もあまり使われない古字で、私の家では当時誰もその字の読みを知らず、それで私達も彼の名を何と呼ぶのか知りませんでした。
 又、当時は名ばかりでなく顔もよく覚えていませんでした。たった一度の短い見合いでは顔など覚えられず、私が覚えていたのは彼の眼鏡だけ。「大きな眼鏡で、まるで水牛に踏み潰された蛙みたい」が、私の、彼から受けた第一印象。彼のは「なんて目ばかり大きくて色が黒い娘だろう」でした。しかもその後、彼は、ずっとなしの礫。心配した母が私に電話をかけさせました。ですから数日後の初デートでは、どんな人だったか、自分の記憶に自信がなくて、約束の大学病院のロビーに母に付き添ってもらい、若い人が入って来るたびに二人で首を伸ばして「この人?違うみたいね?」と探していました。
 顔も名も知らない相手と、親の言いつけのままに婚約する。そう言う時代だったのです。
 心心と言う名はよほど珍しいのか、世に「心心」と言う名があるのがどうしても解せない戸籍係の若い女の子に、「新新」でも「星星シンシン」「欣欣シンシン」(中国語での発音)でもないと説明するのに苦労したり、紛失届けに行った先で若い係り員に、「わあー ロマンチックな名だ。もう少し若かったらデートを申しこむんだったのに」と言われて怒ったり、アメリカの、重刑犯を収用するので有名な刑務所がシンシン監獄と言う名かと思うと、温泉街のラブホテルの名が「心心」だったり、心心と言う名がこんなに多様なハプニングを起すとは、名付け親の伯父も、思いも依らなかった事でしょう。
宛名の書き違いが、思わぬ思い出を引出して、又長いお喋りになりました。もう筆を置きます。
心心 二〇〇三年三月二十九日

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